三橋愛華は、俺が指定した時間の五分前にやって来た。
彼女は学校指定の紺色のコートを羽織り、こちらは俺が指定しておいた校庭に小走りでやってくる。
「申し訳ありません。 遅れました大輔さん」
ぺこりと長い髪を揺らしながらお辞儀をする彼女を、強く睨みつける。
俺の雰囲気を察し、愛華は俺と二十m程離れた所で足を止めた。
俺はじりじりと足を運び、彼女が校舎を背にするような配置まで移動する。
「姫足さんを横取りした事を怒っていらっしゃるんですか? でも彼女ったら大輔さんに怯えていたくせに、急にベタベタしだして不愉快だったんですもの」
俺は表情を変えない。 特に努力の必要も無く、彼女が何を言っても動揺を感じなくなっていた。
「あ、この姿がいけないんですね。 大輔さんは人間なんて相手にしないですものね」
彼女は勝手にそう合点すると、コートのボタンを一つ一つはずしていく。
すると夜の闇を裂くように、白いものが見えてくる。
そして、三橋……愛華はコートを落とした。
彼女は、コートの下に何も着てはいなかったらしい。
病的とも言える、淡く光すら放っているような裸身が下から現れた。
だが、その発育は肌の印象と反対に熟れた果実のようである。
大きく育った乳房は若干下を向いており、それがまた清楚な彼女の顔には似つかわしくなく思え、逆に生々しく、扇情的だった。
平素の俺であったのなら、目を逸らすかまじまじと見入ってしまっていただろう。
だが、そこで終わりのはずは無い。
「フフッ」
そうだ、早くその人間の皮を?いで化け物の本性を見せろ。
睨みつける俺の前で、しかし、予想外の事が起こった。
なんと、彼女の影が盛り上がり、愛華の周りを這い回りながら蛇の形を取ったのだ。
愛華を締め上げながら蛇は彼女の後ろへと頭をやると、その胸が刃物で切られたかのようにガバッと割れた。
無数に並んだ、人間とは比べ物にならない数の肋骨が愛華を肩から包み込み、それが閉じるとまるで拷問器具の如く、愛華の太腿、腹、乳房の脇へと食い込んでいく。
「あぁん」
それに対し、愛華は苦悶の声どころか艶っぽい声を上げた。
肋骨が食い込んだ場所からは血など出ず、その代わり肋骨が打ち込まれた地点からドミノ倒しで作られた絵のように、黒い鱗が生まれていく。 それは次第に広がっていき、彼女の体を覆いつくした。
カポっと間抜けな音をあげ、彼女の頭に蛇の頭が覆いかぶさる。 彼女の首を通り抜け、蛇の下顎が出現し、彼女自身の頭を飲んだ。
三橋の笑顔が、蛇の喉奥に消えていく。
「……アリかよ、皮被って変身なんて」
『無しとは誰も決めてないわ』
そうか、彼女には人間の皮など存在しなかったのだ。
事件ごとに蛇の皮を被り、それを脱ぎ捨てていただけで。
「ふぅあぅ」
何処からか、声が聞こえた。 いや、とぼける必要は無い。 俺はしっかりと見た。
目の前の蛇が、喉の奥から声を発したのだ。
「おいおい……」
「ふふふ、大輔さんの声が聞こえます」
しかも耳まで聞こえるようで、彼女は、先程まで被りものだった蛇の頭が、雅より流暢な発音で俺に返答をした。
「この姿で大輔さんとお喋りできないのは寂しいですから」
俺に耳を指摘されたのが今日。 それを、半日で修正したらしい。
とんでもない。 確かに大した物だ。 人を沢山食ったと自慢するだけはある。
しかし。
「その、もっと近くで見てくださいませんか? 実はこの状態でもここに穴……」
「いや、いいよ。 もう充分」
蛇が腰の下辺りをくいっと持ち上げた所で、俺はその言葉を遮った。
「せっかくだけど、君に興味無くなったわ」
「え……?」
俺はまるで無慈悲な面接官のように、愛華に告げた。
蛇の頭が、爬虫類の枠を無視した驚きの表情を形作る。
「何故、そんな……」
「お前は化け物じゃない。 ただの人間だ」
今度はすがるような目。 様々な芸を見せる彼女を、俺は突き放すように言ってやる。
「気づいてるか? 着て脱いで着て脱いで。 でかくなってるのは、その外面だけだ。 お前自身はずっと、何も変わってない」
「そんな、私はこうして蛇に……」
「どれだけ繕っても、お前の脆弱な心は変わらない。 お前はずっと気弱で後ろ向きな人間のままだ」
「違います! 私はこの姿になって過去の私とは別の生き物になったんです!」
「いいや違わないね! お前が姫足を食ったのは、確かに嫉妬の所為だった。 でも俺が彼女を抱きしめたからじゃない。 お前は化け物の俺を、人間のまま、怖がりながらでも受け入れた彼女に嫉妬したんだ!」
抗議する蛇頭の愛華に、俺は悪意を乗せて叫び返してやる。
愛華にはそれが出来なかった。 だから彼女は、自らも化け物になってそれを誤魔化そうとしたのだ。
「ちが……私は」
「どれだけ食っても、お前が俺になることなんてできない。 姫足にもなれない。 そうなったとしても、俺は俺なんて受け入れない」
「やめてください!」
「お前は化け物になんてなれない。 これからずーっと人間のままだ!」
「やめてーーー!!」
愛華が、悲鳴を上げながら自らの跳躍した。
「お前に、本当の化け物を見せてやる」
この言葉は彼女に聞こえただろうか。
俺は体を捻り、力を溜める。 イメージは決壊寸前のダム。 バックドラフト寸前の炎。 一昨日やった格闘ゲームの暗転。
全ての細胞が一旦体内にぎゅっと凝縮していき、それと共に周囲の音が消え、蛇の動きがスローモーに見える。
今度は途中で止めたりしない。 せき止められた力を、俺は一気に解放した。
雷鳴のような音と共に、仮初の皮が勢い良くはじけ飛ぶ。 遺伝子が反転し体の奥底から別の物へと変質する。
風を切り裂き頭が上前方へと伸び上がる。 涎を撒き散らしながら、乾いた口内が獲物を追い求める。 掬い上げるように、首を勢い良く跳ね上げ空を見上げる。
月が視界に納まると同時に、歯に何かが触れた。
まるでおもちゃのように、その瞬間俺の口はガキン! と音を立てて閉じた。
ブチンとまたしてもいやな音。 それと共に口の中に、確かに鱗の感触がした。
舌の上を蛇腹がうねる感触に耐えながら、それを一気に飲み込もうと更に顎を上げる。
が――その重みが途中でふっと消えた。
何が起こったか分からず、俺は中途半端な状態のまま顎を地面に落とした。
ドシャッと、同時に蛇が地面に頭から落ちる。
『またはずしたの?』
「いや、皮だけ口の中に残った」
口の中に、薄っぺらい蛇の皮の感触だけが残っている。
馬鹿でかい俺の歯だが、噛み合わせも異常に良い。 逃げる隙間はなかったはずだ。
それに着地した場所もおかしい。 あいつは俺に向かってきたはずなのに、元に居た場所に戻っている。
まさかとは思うが……。
『ワープした?』
「みたい、だな」
答えながら、俺は口の中に残ったその皮を飲み込んだ。
蛇は、俺の口の中からまるで手品のように瞬間移動したのだ。
脱皮すれば大丈夫。 その思考が究極まで行き着いた結果がこれだろう。
無茶苦茶だ。 今までで最大級に無茶苦茶すぎる。
しかし俺はニヤリと笑った。
愛華の尻尾が十cm程千切れ、その先から黒いタールのような液体が流れていることを確認したからである。
ドリルでバラバラになっても復活したはずの、あの蛇の傷が治癒していない。
つまりこれは、彼女自身が避けきれない。 この傷は治らないと思い込んだからこそ生まれた結果だ。
愛華の強さは、そのストーカー的思い込みの強さに依存している。
化け物は死なない、出鱈目で、理不尽で、全能だ。
その思い込みの元は何か。
それは俺、いや、彼女から見た俺という理想の化け物である。
つまり彼女の中で俺は、雅以上の最高の化け物として認識されているのだ。
勝てるはずが無い。 だからこれは、事後処理でしかない。
愛華が怯えている。
押し時だ。 俺はそう判断し、指をまっすぐ伸ばした。
指し示すのは蛇、いや、その後ろにある壁だ。
その意味を図りかねたのだろう。 爬虫類の顔に唖然とした色が浮かんだのが見える。
一瞬遅れ、ガコンと、その壁から音が鳴った。
愛華が振り向く。 校舎の壁は、楕円形にざっくりと抉れていた。
音は、そこから壁の破片が落ちた音だ。
蛇の体が、後ろを向いたまま動かない。
それはそうだろう。 俺の立っている場所から校舎までは、二十m以上ある。
そんな所まで牙が届くのであれば、それは……。
「本物の……化け物」
蛇が、愛華が呟いた。 一瞬の沈黙。
次の瞬間。 蛇の首がこちらを向き、その体が電極を挿されたかのようにブルリと震えた。
喉元が大きく膨れ上がり、何かがせり上がってくる。
そして頭を下げ、蛇が、吐いた。
ごぽっという音と共に、透明な粘液にまみれた黒い固まりが這い出てくる。
それは、体中にその黒髪を貼り付けた愛華だった。 間から覗く白い裸身が艶かしい。
そして彼女自身、何が起きたか分からなかったらしい。
ゆっくりと周りを見渡し、それから主を失った蛇の皮を見つけ、慌てて羽織るように体に巻きつけた。 が、彼女の体ほどまで縮まったそれが、彼女と同化する気配は無い。
「認めたな」
俺は彼女に、ゆっくりと近づいた。 彼女はついに、心のうちで自らが皮を被っただけの化け物だと認めてしまったのだ。 そして今、本物の化け物を見た途端、その皮すら剥がれてしまった。
今の彼女は、もはやただの人間だ。
「いや、いや、いやああああ!!」
叫び声を上げ、愛華が皮を引きずったま逃げ出した。
追いかけようとした俺だが、右手が動かない事を失念し、躓いてしまう。
『何してるの』
「ミーヤの思いが重くて」
言いながら、校舎の壁へとたどり着く。
『せっかく重い石を押さえて置いてあげたのに』
すると、壁の中から双子の片割れが不満そうな顔をにゅっと出した。
双子は空中でハイタッチをすると、ふわふわと俺の左右の定位置に戻った。
いくら俺の口でも、こんな遠くまでは口が届かない。
そう、俺が定義付けてしまっている。
だから俺は、一つ細工を仕掛けた。
予め口で削っておいた校舎の壁を、双子の片割れに押さえさせておいたのだ。
そして、俺の合図でそれを外させた。
効果は見ての通りである。 ここまでとは俺も予想外だったが。
「さて、急いで追わないとな」
『あら、慌てる必要は無いわよ』
『足、怪我をしてたから』
「足?」
ほら、と双子は地面を指差す。
最初はなんだか分からなかったが、よく見ればそこには、赤黒い染みがついていた。
血だ。 皮が千切れたダメージが、どうやら中にいた愛華にまで伝わったらしい。
そういえば逃げる時足を引きずっていたような。
ともかくこれで、彼女の後を追える訳だ。 ため息をつきながら、俺は血の痕を追った。
三橋愛華を追いながら、俺は歯の隙間から汽笛のようにため息を吐き出した。
これではまるで悪者だ。 というより、ホラー映画の化け物だ。 少女を追い詰め、怯えさせ、殺してしまう化け物。
そう、殺すのだ。 俺はこれから彼女を自分の意思で殺す。
先程は同じ人殺しの化け物である雅を苦心して殺さないようにしたのに、彼女は殺して、自分も人殺しの化け物になる。
彼女を放置する事なんてできない。 今日俺は彼女をその為に呼び出したのだ。
――血の跡を追いながら階段を上がっていくと、やがて行き着く先に察しがつく。
俺が先程まで雅と戦っていた体育館だ。
出ていく時に閉めた扉が、今は開いていた。
勢い良く、それを開ける。
中を歩きながら見回すと、壁や床が損傷し、隅では少女が横たわっている。
肩は上下しているから、きっと大丈夫だろう。
俺の目的は、その先にある小さなプールを一望できるテラスだ。
血の跡はそこに続き、三橋愛華は、震えながら追い詰められていた。
彼女はその震えを隠すように両腕で蛇皮を抱き寄せ、肩を抱いている。
俺を見ようと視線を上げようとするのだが、どうしても出来ないようでまた伏せた。
「諦めろ」
俺は彼女に呟いた。 命を諦めろ。 そう呟いたつもりだった。
しかし俺の声はむしろ、彼女に懇願するような調子になっている。
まだ心の奥に、甘い期待があった。
彼女はもしかしたら、さっきのやりとりで恐怖を覚え、改心したかもしれない。
もしかしたら二度と蛇になんてなれないかもしれない。
俺のような化け物になるなんて願いなんて捨てたら、やり直せるかもしれない。
もしかしたら、かもしれない。
開いた俺の口は、自らをあざ笑うようにつり上っていた。
「……ません」
愛華のか細い声が、残っているか分からない耳に響く。
「ごめんなさい。私はこの思いを、諦められません」
しかし彼女の体からは、いつの間にか震えが止まっていた。
「最初はただ、貴方の立場に憧れていただけかもしれません。 でも今は違うんです」
言いつつ、彼女はついに目線を合わせ、俺を見つめる。
「好きなんです、貴方が。 孤独を隠して笑う仕草が。 殺人鬼の私をなお救おうとする優しさが」
愛華が、まとっていた蛇皮を落とした。 彼女はまるで聖女のように胸の前で手を組み、涙をひと筋流す。
「私は貴方になりたい。 一つになりたい。 偽者だというなら、もっともっと人を食べて本物になって見せます……」
浮かべたのは、曇りのない笑顔。
涙が頬を伝うと、その軌跡が鈍く、黒く光る。
雫と共に、ぽろぽろとまるで厚化粧のように彼女の面の皮がはがれていく。 その下には、黒い鱗。 涙を流す瞳は金色の光を宿し、瞳孔が縦に裂けている。
「愛しています、大輔さん」
その涙で、俺は悟った。
――あぁ、もうダメなんだ。
緩慢な動作で思いっきり口を開け、ガチン。
閉じると、黒髪が宙に舞った。
手すりが削り取られ、俺の口を辛うじて避けた愛華だったが、バランスが崩れテラスから落下していく。
それを見送って、俺は彼女に背を向けた。
足の痛みと混乱で溺れそうになりながら、三橋愛華はようやく水面に顔を出した。
急いで落ちてきたテラスを見上げてから、飲んでしまった水をケホケホと吐く。
……立島大輔が居ない事に安心した自分を確認し、嘔吐感に目に涙をにじませた。
ドボン。
背後で、何かがプールに落ちた。
本能が必死で拒むのを感じながらも、愛華はまたも後ろを向いてしまった。
ばしゃん……、ばしゃん……、ばしゃん、ばしゃん。
水上へと跳ねながら、プールの端から何かが迫ってくる。
リズム良く、大きな水しぶきを上げながら。
あれはバタフライだ。 自分が彼と改善しようとしていた、バタフライ。
スピードはゆっくりだが、まっすぐ自分に向かってくる。
愛華は微笑もうとした。
大丈夫、怖くない。
自分が憧れ、愛した人だ。
大丈夫、彼が例え私を食べようとしているとしても、一つになることは怖くない。 食べようとしているのだとしても、食べようと、食べられる食べられる食べ化け物に食べられる。
「いやあああああああ!」
愛華の目の前で、それがひときわ大きく跳ねた。 牙がびっしりと生えたディープピンクの口腔。
ざばん!
彼女の叫びは、それに体ごと飲み込まれ消えていった。
――波紋と共に、プールに満ちる静寂。
しばらくし、大輔が水面から上がってきた。
顎を引き、彼を宙から見下ろす双子に問いかける。
「……なぁ、愛華って本当に人間だったのか?」
『人間を丸呑みできる人間なんて』
『いる訳無いじゃない』
大輔の足が水底を離れ、ゆっくりと体が水面に浮く。
「だよなぁ」
月を見上げながら、彼はまた水底へと沈んでいった。