その少女は、恒例の『ナンパ』にも簡単に乗ってきた。
自分達が声をかけると、大抵の少年少女は胡散臭そうに警戒を露にする。
それはそうだ。 見た目がそっくりな双子の少女――あくまで相手にはそう見えるだけで、片方は少年なのだが、そいつらが「一緒に遊ばない?」などと声をかけてくれば、何やら異常なものを感じるのが、正常というものだろう。
そんな訳で、俺が人類に馴染む為に綾菜が考案した、『ナンパ』は成功率が低かった。
だが、少女はその誘いに対して、屈託のない笑顔で頷き、了承した少女がいた。 髪の短い女の子で、その笑顔を見た俺は一目でその娘を好きになってしまった。
綾菜もその少女がとても気に入ったようだった。
彼女の家が割と近場であった事もあり、俺達は彼女と沢山遊んだ。
しかし、だが、彼女と俺の小さな恋物語、もとい俺の片思いは長く続かなかった。
俺が自分の性別よりももっと隠しておかなければならなかった事、自らの本性を彼女に知られてしまった所為だ。
「リンちゃん、リンちゃんの口、お口が……」
暗い、蛍光灯が明滅する建物の中。 少女の顔が恐怖に染め上げられている。
俺達を、俺を受け入れてくれたその笑顔が、見る影も無く歪んでいる。 腰は砕け、体中がバラバラになるんじゃないかってほど震えていた。
呆然と立ち尽くす。違う。 俺はあの瓦礫から、地震で崩れ、降ってきたそれから君を守ろうとしたんだ。
違うんだ、誤解なんだ、何が? 化け物化け物化け物。 彼女の小さな口からではない罵倒が、いや事実が聞こえてくる。
黙れ。 違う、君じゃなくて。怯えないで。 助けて。 求めるように手を伸ばす。
「いやぁぁぁぁぁーーーー!!」
まるで、やかんみたいだ。 伸ばした手を、火傷したかのように引っ込め、彼女の甲高い悲鳴を聞きながら、思う。
同時に彼女の眼がぐるんと上を向き、あの可愛い顔がだらしなく白目を剥き、その股間から湯気が立ち上る。
やっぱりやかんみたいだ。 そんな暢気な感想が浮かぶ。 笑った、笑えなかった。 口は笑っていて、破れた頬を流れる雫を飲み込んでいた。
あぁ、どうしよう。どうにかしなきゃ。 彼女がおねしょをしてしまったみたいだし、気絶してしまったし、瓦礫で怪我をしたかもしれないし、それに知られてしまったし。
知られてしまった。 僕が化け物だと知られてしまった。 どうしよう。 どうにかしなきゃ。 彼女を。僕は再度手を伸ばす。
「だいすけ!」
その時、後ろから声が響いた。 双子の、僕そっくりの、口の破れていない方、綾菜。
あぁもうダメだ。 この口の事を彼女にまで知られてしまった。 しかも今の僕は、正に彼女に襲い掛かる化け物そのものだ。 もう僕は――。
「だいじょうぶだから」
混乱が頂点に達した俺の体を、暖かい感触が包んだ。
気づけば、綾菜が後ろから俺を抱きしめていた。
「だいじょうぶだから」
彼女はもう一度そう言い、俺を先に家に帰した。 そして――。
それを思い出したのは一瞬で、決して映画のように順序よく再生された訳ではない。
ただ、それは俺の記憶の空白にピタリとはまり込み、本当にあった事なのだと、俺に認識させる。
さっきからの頭痛の原因は、これだったのだ。
呆然とする俺を立ち戻らせたのは、頬を包む暖かい感触だった。
気づけば、綾菜が俺の頬を撫でていた。
俺の破れた頬、そして、そこから覗く牙を、愛おしそうに。
知っていたのだ。 彼女は俺の口の事を。 ずっと、ずっと前から。
「お前は、俺を庇って組織に入ったのか」
「……記憶、戻っちゃったんだね」
俺の表情で、綾菜は悟ったらしい。 自虐的に微笑んだ。
そうだ。 あの子に正体がバレたあの日。 綾菜が俺の身代わりになり組織に連れて行かれたのだ。
そして俺は、その記憶を消された。
「結局、私は人間だと分かって、記憶を消されるか組織の一員になるか選択させられ、そして、狩人になった」
そうか、綾菜は、俺を庇って今まで化け物を始末してきていたのか。 狩人として。
……狩人?
「え、ちょっと待て、今なんて」
「狩人」
「狩人はミーヤだろ!?」
直りかけていた頬が、俺の悲鳴のような発声のせいで再度破れる。
どういうことだ。 狩人が二人? じゃぁ占い師はどこに……。 頭が疑問でいっぱいになる。
いや、とにかく今は逃げよう。 すぐ蛇が襲ってくるとも限らない。
そう考えた俺が起き上がろうとすると、いきなり綾菜が俺の胸倉を掴み、手前に引き寄せた。
抵抗する間もなく綾菜の首のすぐ横の地面に頭を打ち付ける俺。
痛みは無い。 が、抗議するべく頭をあげようとしたところで。
「立島ダイスケエエエエェ!!」
聞き覚えがある声が響いた。 ほぼ同時に、頭の上を何かが通過する。
――煙の中から現れたのは、腕を蔦に変形させた椎名雅だった。
そして俺の口は、さっき叫んだせいでばっちり裂けている。
「ちがっ、これは誤解だ!」
状況を理解し、俺は叫んだ。 体勢だけ見れば安いラブコメだ。 しかし今の雅には殺気が溢れている。
見られた、見つかった。 これで二人、いや、三人目だ。
彼女の場合はもっとまずい。
俺が彼女を騙していた事がバレて、綾菜を襲っていると誤解された。
どうする? どうすればいい? どうやって彼女に説明を……。
混乱している俺を抱えたまま、綾菜が床を転がった。
その横を、雅の触手が叩いて行く。
「センパイ! どいてクダサイ!」
「違うのミーヤ! 大輔は悪いミミックじゃなくて……」
「ミミックは皆悪イ! そいつは、私を騙シタ! 騙してセンパイを食べようとシタ!」
言いながら彼女は触手を振り回し、俺達の周りの床を打ち据える。
雅は完全に逆上している。 説得どころの話じゃない。 このままだと綾菜を巻き込みかねない。
そう判断した俺は、綾菜を振り払って階段を昇った。
「待テ!」
即座に追いかけてくる雅。 くそ、何でこんな事になる!
更に階段を上がる。 と見せかけて即座に二階婦人服売り場を駆け抜ける。
だが、雅は惑わされることが無かったらしい。 すぐ後ろの床を触手が叩いた。
マネキンの陰に隠れるが、 それも即座に打ち据えられ、俺ごと後方に吹っ飛ぶ。
「ミーヤ! 俺は君を騙すつもりなんて……!」
「黙レ化け物!」
試着室の陰に隠れ説得しようと試みるも、やはり聞く耳なんてもたれない。
俺がしたことは彼女のトラウマに直撃だから仕方ないとはいえ、彼女にそれを言われれば頭に血が昇る。
「自分だって……!」
「黙レェェェ!!」
昇った勢いで、つい俺は二個目の特大地雷を踏んでしまった。
ひゅんひゅんと煙の中から飛んでくる蔦が試着室の壁を破砕していく音を聞きながら、俺は自らの若さを激しく後悔した。
「蛇が綾菜を狙ってるんだ! 戻らないと!」
「蛇は、もういない!」
俺が叫ぶとミーヤはそう断言し、叫び返した。
いないって……やっつけたってことか? じゃぁあの模型が落ちてきたのは事故?
木片と下着が乱舞する空間の中、更に疑問が沸いてくる。
今のは声を出したからまだしょうがない。 しかしさっきからこの視界の中、彼女は何故俺を正確に狙えるのだ。
最初の一撃だってそうだ。 彼女はあのもやの中、綾菜と同じ格好をしているはずの俺だけに蔦を振るってきた。
そもそもあれじゃ、俺の顔なんて確認できないじゃないか。
昨日だってカンで蛇の居場所を見つけたっていうし、今日だってそうだ。
悪寒が背筋を這い回る。 そんなことがあって良いのかと自分自身に問いかける。
まさか。 しかしそれなら辻褄は合う。 異常な、化け物への嗅覚。 狩人だった綾菜。
――占い師は彼女、椎名雅なのか。
自分の出した答えに俺が呆然としていると、いつの間にか試着室の壁が突き破られ、一本の触手が目の前に迫ってきていた。 今度こそ避けきれない。
「しまっ!」
た、と言い終える前に腕が何か引かれる。 おかげで俺は打ち据えられずに済んだ。
慌てて横を見ると、それは見知った同型の顔。 綾菜だった。
「っ、大輔大丈夫?」
「あぁ、助かった」
彼女は壁の裏に俺を引っ張り込むと手を離し、眉をしかめた。
「まさか、ミーヤって占い師なのか?」
導かれた推論を、俺は早速綾菜にぶつけた。 綾菜はしかめ面のまま、それに答える。
「……そうだね。 ミーヤは、ミミックに対する憎しみが高じて、ミミックと人間との判別ができるように、なりかけてる」
「それが、占い師」
化け物は、自らが望んだように進化することができる。
つまり両親を殺され、二度と化け物に騙されたくないと願った結果彼女は……。
「本人はまだ、それを、自覚していない。 組織は、彼女の裏切りを恐れてるし、彼女自身の能力も、まだ皮を剥いだミミックの位置を、察知できる程度のものだから」
「ん?」
何か違和感を覚え、綾菜の方を見る。 が、それが何か確かめる前に今度は壁を周り込むようにして触手が飛んできた。
間一髪、頭を下げてそれを避ける。 いや、避け切れずウィッグの先っちょが千切れた。
やはり綾菜が今の俺と行動を共にするのは危険だ。
「と、とにかくお前は急いで外に出ろ!」
「あ、大輔!」
俺を呼ぶ綾菜を振り切って、俺は更に階段を昇った。
三階、四階、五階と立て続けに登っていく。 そうしながら、階段を一歩踏みしめる度に胸の中にこれで良いのかという思いが募っていく。
雅をもっと上手く説得できたはず? いや、あれは生まれが種族人間でないと無理だ。
綾菜を蛇が襲うかもしれない? いや、雅は蛇はもういないと言っていた。
彼女が綾菜の言う通り占い師なら、その心配はない、はずだ。
「やっぱり、戻る」
しかし、足を止め、俺は双子に告げた。
『今度こそ死ぬわよ?』
『そうじゃなくても、またさっきの繰り返しになるわよ』
「かもしれない」
だが、綾菜の、何かが引っかかった。
それが何かは分からない。 しかし、今それを確かめなければ後悔すると、本能に近い部分が告げていた。
俺の真剣な目を見ると、双子はお互いの顔を見合わせる。 そして同時にため息。
『分かったわ』
『ただし私達は置いていって頂戴。 人形もね』
「……そうだな」
確かに、俺が今からすることは自殺に等しい。 こいつらを巻き込む訳にはいかないだろう。
頷いて、頬の皮を剥ぎ取る。
それを床に置くと、双子はその上に乗った。 ついでにマペットも放る。
「何とかなったら迎えにくる」
『いいから早く行きなさい』
『一応そこから回り込んでいくのよ』
「お、おう、サンキュウ」
双子がしっしと手を振る。
少し躊躇ってから、俺は彼女らのアドヴァイスにしたがって駆け出した。
いつ触手が飛んでくるか分かったものではないが、ビビッている場合ではない。
回り込んだ俺が、止まったエスカレーターを下って二階まで降りた時。
「「デカ乳輪―――――――――――!!」」
デパートの中に、あんまりな二重奏が響いた。
思わず振り返る。
雅は俺が女声を出せると思っているし、あの内容だ。 彼女はあちらへ向かうだろう。
あいつら、囮になるためにワザと……。
何してるんだ。 そんなキャラじゃないだろ。 似合わない事しやがって。
戻ろうかと一瞬迷ったが、あいつらならきっと大丈夫なはずだと堪える。
これを無駄にしたら、それこそ何を言われるか分かったものじゃない。
そう自分に言い聞かせ、とにかく俺は綾菜と分かれた二階の階段に向かう。
もやを掻き分け、散乱する下着を踏みつけながら進むと、そこには、綾菜が壁にもたれ座り込んでいた。
良かった。 食われたりはしていないようだ。 ほっと息を吐いてから駆け寄る。
「お前、そんな所で休んでる場合じゃないだろ!」
「大輔を、待ってたんだよ」
「俺を待ってたって……と、そんな場合じゃない。 とにかく一旦外に出て……」
俺はそう言いながら中腰になり、綾菜の手を取る。 そして、びくりと震えた。
彼女の手が、あまりにも冷たくなっていたからだ。
「私は、いけない」
言いながら、綾菜は手首を捻り、自らの手の平を見せた。
そこには小さく、蚯蚓腫れのような傷ができている。
「そ、そんな傷ぐらい……」
叫ぼうとしたところで、俺は思い出す。 今日双子に教えられたあの事を。
「まさかそれ、さっき俺を助けた時に雅の蔦で……」
双子の声がフラッシュバックする。 化け物の持つ毒に、人間は抗いようが無い。
特に雅のそれは、蛇をも脅かすほど強力なものだ。
「その顔。 事情は分かってるみたいだね」
優秀なパートナーがついてるんだ。 呟いて、ニコリと綾菜が笑う。 それは普段とは比べようも無いほど、弱弱しいものだった。
それを見た途端、俺は我を忘れて彼女に怒鳴ってしまっていた。
「ふざけんな! やめろよそんな顔! 根性で何とかしろよ!」
「ミミックなら、それでなんとかなるんだけどね……」
「なら今すぐ化け物にでも何でもなれ! そんな顔すんなよ! 俺は、俺は」
言いながら、彼女の肩を掴む。 その肩もやはり、体温を失いつつあった。 綾菜の体は、急激に死へと向かっている。
「俺は、化け物なんだよ。 ずっと、ずっとお前の真似をして生きてきたんだ。 どうすりゃいいんだよ、これから」
呟くと涙が勝手に零れ落ちる。 格好悪い。 これから死ぬ相手に何を縋っているのだ。
そう自分に言い聞かせるのだが、彼女がこれから死ぬのだという事実が胸に染み込めば染み込むほど、いやいやと駄々をこねる子供のような自分が浮かび上がってくる。
「バカだね大輔は。 私は本棚の裏にエッチな本隠したり、女の子にいきなり抱きついたりしないよ」
綾菜は微笑んで、あやすような調子でそう返す。 左手に一瞬力が篭ったのは、頭でもなでようとしたからか。
「大輔はもう、一人で立派に生きてる。 存在を認められて、赦されて、愛されてる」
もう力が入らないのか。 綾菜はそれを諦めたようだった。
「だから、大丈夫……」
それで、情けない気持ちが頂点まで達する。 俺は、こいつにどれだけ頼って生きてきたのだろう。
組織から庇われて、友達の作り方を教えてもらって、生き方を真似して。 そして今だって。 俺は、何もこいつに返せないのか。
「一つ、お願いがあるんだ」
「な、なんだ!?」
そう思った矢先だったので、俺は勢いごんで彼女に問い返した。
綾菜の唇が震えているのを見、彼女の言葉を聞き逃さないように耳を寄せる。
「私を食べて」
「え……?」
聞き間違いかと思った。 鼻と鼻が触れ合うような距離で綾菜と目を合わせるが、彼女の目に揺らぎは無い。
「事故とは言え、私を殺しちゃったっていうのは、ミーヤには耐え難い事だと思うんだ。 だから私は、蛇に食べられたって事にして……大輔が食べて」
やはり、聞き違いではなかった。 何で、何でこいつは、自分の死に際に人のことばかり気にするんだろう。
そうやって、他人を、化け物を庇って、結局自分が死んでしまう。
……そして、死に際の願いすら叶わない。
蛇は、もうこの建物には居ないのだ。 占い師の雅が言うからには、多分間違いないのだろう。
少なくとも、彼女にとっては疑いようのない事実だ。 つまり今こいつを食うなんて事をすれば、それは……一つの決別を意味する事になる。
「分かった」
少し間をおいてから、俺は彼女に微笑んで答えた。 多分、今までで一番自然な笑みができたと思う。
綾菜は唇の動きだけで、多分、ありがとうと言った。 それから息を吐いて、ゆっくりと目を閉じる。
涙で視界が曇っているうちに、俺は大きく口を開け――。
ごくん。
いただきました。