いもうとティーチャー☆

第四十五限:妹バケツ


「ちっきしょ」

呟きながら、壁に寄りかかる。

半ば強引に廊下へ連れ出されたとは言え、教室に戻ろうとしても同じ目にあうのは分かりきっている。

とはいえ、ここで馬鹿みたいに突っ立っているのもまた間抜けだ。

どこか適当にサボれる場所…屋上は未久美が鍵を返してしまって無理だし。

て言うかあいつ、あそこではあんな態度だったくせにいきなり教師ぶりやがって。

いや、別に甘えて欲しいって訳ではなく…。

ちょっと考え事をしていただけで廊下は無いだろ。

あの後の事を考えればそれだけって訳でもないが。

などと考えていると。

ガラッ。

教室の扉が開く。

「片野君、ちゃんと立ってますか?」

「…なんでしょうか、片野先生様?」

出てきたのは未久美だった。

扉を閉めると、こちらに寄ってくる。

「ほら、寄りかかっちゃダメ」

俺の手をとって、壁から引き剥がそうとする。

まぁ、こちとら壁にめり込めとばかりに全体重を預けているので、そんなもので動くはずも無いんだが。

「むー!」

「お前…授業はどうしたんだよ」

とはいえ、こんな事で張り合ってもしょうがない。

俺は壁に別れを告げて身を起こす。

自力で俺を動かしたと錯覚したのか、未久美は一瞬嬉しそうな顔をしたが、まぁ、どうでも良い…。

「ちょっと自習」

「新任教師がサボりかよ」

「ズル休みじゃないもん。 用が終わったら教室に戻るんだから」

手を離した未久美が、無い胸を張る。

「用?」

「うん、大事なこと忘れてたの」

言いながら、未久美は俺から離れる。

「って、なんだよ?」

「んーむー…」

そして、応える気があるのか無いのか分からない返事をしながら、廊下の角にある掃除用具入れを漁りだした。

「だから、何してんだよ」

「ええとね…」

振り向いた未久美が手に持っていたのは、バケツだった。

しかも二つ。

だからと言って、俺には奴の意図など読み取れないのだが。

「…それが?」

「これに、水を入れるの」

言って、未久美は今度は水道へ。

気になって奴の後ろをついて歩く。

「じゃー。 じゃー」

何故か口で効果音を入れながら、蛇口を捻って水を注ぐ未久美。

どう見ても教師の行動じゃないぞ、それ。

「つーか…」

やっと、こいつのしたいことに察しがついた。

むしろ、何故今まで気付かなかったのかと思うべきなのかもしれないが。

「…それを持って立ってろってんじゃ無いだろうな」

ほぼ満杯の水が注がれたバケツが目の前に二つ存在している以上、可能性なんてほとんど一つしか存在しない。

「うん、廊下に立つときはこうするのが普通なんでしょ?」

言いながら、未久美は蛇口の水を止めた。

「そ…そんな常識ねぇよ」

実に当たり前のように言い放つ未久美に対して、思わず大声で叫びそうになる。

が、ここが廊下だという事を思い出し、何とか自制する。

「え、でも雪村さんが、立たせる時はバケツを持たせるとより効果的だって言ってたよ」

「…もう良いから、あいつの言うことは一文字も聞き入れるな」

やっぱりあいつの入れ知恵か。

毎度毎度なにがしたいんだよ、あいつは。

「っていうか、お兄ちゃん!」

「な、なんだよ。 ていうか、学校でその呼び方は…」

急に声を大きくした未久美に、思わず狼狽してしまう。

「また女の子にデレデレして! しかも、その、胸とか! えっち!」

「だ、誰がデレデレなんぞした!」

人の抗議も聞かずに、未久美はあることないことまくし立てる。

いや、むしろ無かったことだけ…だが。

「屋上ではあんなに優しかったのに、目を離すとすぐ他の女の子ばっかり見て!」

「そ、それは、この前喧嘩した時にお前も納得しただろ!」

「あー! やっぱり見てたんだ!」

って、これじゃ、俺が自分を最低の浮気野郎だと認めたようなもんじゃないか。

自分の迂闊な発言を呪ったと同時に、未久美にもツッコミを入れられる。

「それに納得なんてしてないもん! お兄ちゃんが優しいのはしょうがないけど、エッチなのはダメだもん!」

「人を性欲の権化みたいにいうな!」

「いいから、バケツ持って!!」

未久美がバケツを二つ一気に持ち上げて、俺に押し付ける。

勢いに押されてついバケツを受け取ると、水がたっぷり入っているだけあって、ずっしりと重い。

…よくこんなもん持ち上げたな。

顔が真っ赤なのは、興奮した所為だけではないかも知れない。

「むぅぅぅぅぅ〜」

まるでこちらを威嚇するかのように唸る未久美。

その責めるような瞳を見ていると、なんだか俺の方が悪いような気分になってくる。

いかん、これは洗脳だ洗脳。

俺は悪いことなんてしてない。

惑わされないように頭を振る。

「むぅぅぅぅーーー! お兄ちゃんこっち見て!!」

「はぁ、なんでだよ?」

「片野君、私の目を見なさい!」

「…なんで教師口調に切り替わるんだよ」

文句を言いつつ、未久美に言われたとおり奴の顔を見る。

未久美のほうは凹凸のない胸を張って満足げだ。

…しまった。 このタイミングでこいつの言う通りなんかにしたら、教師口調で命令すれば俺が従うなんて思われる。

などと暗い考えがよぎった瞬間だった。

「お兄ちゃん」

「え?」

呟いた未久美の顔が、俺の顔に近づいてくる。

思わず手で止めようとするが、両手はバケツで塞がっている。

そうこうしている内に未久美の顔が近づいてきて…。

ちゅっ。

本当にこんな音がするんだなと、頭の片隅でぼんやりと考える。

未久美の顔は爪先立ちのためか、緊張のためか、体がプルプルと震えている。

顔が茹で上がるぐらい真っ赤だ。

冷えた銀色のバケツとの対比が面白い。

…未久美の唇は、俺が咄嗟に顔の前に掲げたバケツにくっついていた。

ついたまま離れないことを考えるに、たこの吸盤よろしくチュウチュウと吸い付いているのだろう。

数秒たってやっと異変に気付いたのか、未久美はそろそろと目を開けた。

俺の顔を確認して、自分との位置関係を確認する。

「…」

「…」

俺も何を言って良いか分からず、しばらくお互いの顔を見つめながらの沈黙が続く。

徐々に、限界だと思われた未久美の顔の赤さがさらに増していく。

未久美は頭ごと勢い良くバケツから唇を離した。

離れるときキュポンとかそういった類の音が聞こえた気もするが、多分幻聴だろう。

「な、何でよけるのー!?」

「避けいでか! 何しようとしてんだよお前は!!」

「な、なななにって…その…あー、むぅぅぅ」

未久美は動揺の極地に達したようで、まともな日本語を喋れない。

俺はと言えば、今とんでもない事をされそうになったとは思うのだが、未遂に終わった上こいつの挙動がアホ過ぎて、事を真剣にとらえる事が出来ない。

それ以上何を言って良いかわからない俺が言葉を探していると、未久美が突然俺を両手で突き飛ばした。

慌ててバランスをとって何とか転倒は免れたが、こぼれた水が太ももをビチャリとぬらす。

「な、なにすんだよ!」

「私、頑張るもん!」

捨てセリフを残して、未久美は教室へと駆け込んでいった。

「なにを頑張ってんだよ…」

取り残された俺は、呆然としながらその後姿を見送る。

事が重大だと俺が認識し始めたのは、帰りの電車に乗ってからだった。


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