いもうとティーチャー☆
第四十二限:妹カゼヒキ
悶々としたまま、リビングのソファーに寝転がる。
そろそろ晩飯の支度をしなければとは思うのだが、どうにも気力が出ない。
大体、食うのも俺だけだしな…。
両親からは、珍しく夕飯はいらないと連絡があった。
ちなみに、珍しいのは連絡をしてくることのほうだ。
おかげで余分に作る必要は無い。
あまりものを弁当箱に詰め込むなんてこともしなくて済む。
毎回こうだとありがたいのだが。
「はぁぁ…」
テレビのリモコンに手を伸ばすが、結局そのまま引っ込めた。
そういう気分でも、無い。
何かをしなくちゃならない気もするが、何もしたくない。
寝るには、いくらなんでも早すぎるか。
何だって俺は、こんなにまいってるんだろう。
こんな日は今までだってあったはずだ。
例えば、未久美が留学していた半年間だとか。
…まぁ、そん時だけか。
親も何を心配してだか、よく帰ってきてたし。
んなことに気を回すぐらいなら、普段からもうちょっと早く帰ってくれば良いのだ。
そういえば、あの時は一人で家にいるときでも、未久美からちょくちょくメールが来ていた。
そりゃぁもうしつこいって位に。
あいつはやたらと嬉しそうに、あっちでの生活とか俺には理解不能な数学の話とかを送ってきて、その中で一日三回は寂しいと言った。
「寂しい…ね」
口に出してみて、それが今の自分の状態を表すのではないかと思い当たる。
思わず手にとってしまっていたケイタイを放り出して、俺は呟いた。
「アホか」
寂しくて留守番もままならないなんて、今時そこらの幼稚園児でも言わない。
ちなみにケイタイに着信は無し。
…未久美は、今でも寂しがっているのだろうか。
里美先生の言葉を聞く限り、多分そうだろう。
だったら、帰ってくれば良いのだ。
雪村妹のことを色々考えているなら、取り合えずそれを話してみればいい。
あいつ本人にでも、俺にでも。
数学の勉強でも何でも、ここですればいい。
俺も、変な嫉妬なんてしないようにするから。
だから。
「…帰ってこいよ」
呟いた後で、意味も無くソファーから跳ね起き、両手で顔を覆う。
何か今、結構恥ずかしいこと言わなかったか?
ていうか今のは、ただの俺の願望じゃないのか。
酒も博打もやめるから、帰ってきてくれと女房に縋るのと何が違う。
違うことといえば、本人に言っていないことぐらいか。
…まぁ、大きな違いだわな。
馬鹿らしい。
立ち上がって、キッチンへと向かう。
戸棚の中にいくつかカップ麺が入っていたはずだ。
物臭なうちの両親が食い尽くしていなければだが。
カチャ。
と、小さな物音を耳が拾う。
ドアノブがまわった音だ。
玄関のほうに視線を向けたが、それから何のアクションも無い。
空耳にしちゃ、やけにはっきり聞こえたし。
ピンポンダッシュの応用か…。
地味過ぎるだろ。
脳内で漫才を繰り広げながら、ゆっくりと戸を開…。
「む?」
開かない。
反対側から押しているようだ。
それも体重をかけて。
「はぁ…」
とりあえず、これで扉の外にいるのが誰かは分かった。
こんなことをする理由はさっぱり分からんが、こんなことをするのはあいつしかいない。
一度ドアノブから手を離して思案。
…良し。
思いついて、敢えてドアに鍵をかけてみた。
ガチャン。
扉の外にも聞こえるような音で、確かに扉はロックされる。
「あっ」
扉の外のちんちくりん…あくまでも推測だが、まぁそいつが慌てた声を出す。
止めとばかりに、今度はチェーンロック。
ガチャ、ガチャン。
…は、まぁ音でそれっぽく誤魔化して保留。
「あ〜!」
慌てた外の相手が、ドアノブを引っ張った。
その機を逃さず、俺は素早く鍵を解除する。
勢い良く開く扉。
それを追うように外へ出ると、俺は扉の裏を覗きこんだ。
「むぅぅぅ〜」
「何やってんだ、お前」
半分本気で、我が家の壁と扉に挟まれた我が妹に尋ねる。
ぶつけでもしたのか。
後頭部を確かめるようにさすっている。
「むぅ〜〜」
唸ったまま、未久美は扉の間から抜け出ると、俺のことも無視して家に入った。
後を追いながら、なるべく自然に声をかける。
「飯、食うだろ」
「いらない」
「なんで?」
「本を取りに来た…だけだもん」
「今日の晩飯は、お前の好きなもんだぞ」
あくまでも予定だが。
未久美に続いて、部屋の中に入る。
「里美先生は焼肉だって言ってたもん」
「…そりゃ豪勢だ」
グラムいくらかは知らないが、客用だしきっと高めの奴だろう。
そうじゃなくても、肉という響きだけで何かしらひきつける魅力がある。
て、まぁ、俺は別に食べ物であいつを釣ろうとしていた訳ではない。
そんなもんで釣れるんだったら、何でも作ってやるが。
俺に背中を向けて、未久美が目当ての本を探す。
それを見ながら、俺はどうしたもんかと考え込んでいた。
ただ、その思考にはあまり切実さが生まれない。
別に未久美がどうでも良くなったとか、このままでも良いなんて思ったなんてことは無いが。
なんとなく、安心してしまっていたのだ。
こいつが帰ってくるだけで、こんな風に安心できる自分がいることに、安心する。
なんとも滑稽な精神の安定のしかただが、落ち着いてしまったものはしょうがないじゃないか。
「なぁ、未久美」
「何?」
硬い調子の未久美の声。
「なんで無理してまで勉強なんてしてるんだ」
「里美先生に、聞いたの?」
「まぁな」
「じゃぁ、言ったの?」
相変わらず言葉足らずな妹の言葉だが、内容は理解できた。
つまりは、俺達の秘密をばらしたかのかと聞いているのだろう。
「いや…」
俺は未久美と自分の関係を話した訳じゃない。
そういえば、何であんなに色々教えてくれたんだろうか。
彼女から見れば、俺と未久美は一応生徒と教師のはずなのに。
「つーか、いい加減帰ってこいよ。 勉強なら家でだってできるだろ」
疑問をとりあえず脇において、未久美に提案する。
却下されるのが分かっててする提案というのもなんだが、まぁ、言って損はないだろ。
「やだ」
「なんで?」
こうやって、会話の糸口もつかめることだし。
「とにかく、まだダメなの!!」
未久美の腕がその辺にあった本を適当に掴み、俺の脇の下をぬけ、そのまま部屋を出ようとする。
俺は後ろから、逃げかけた未久美の両こめかみを、手ではさんだ。
まともに会話が出来ると思ったら、これだ。
「こら、逃げるな」
「に、逃げてなんか…」
「毎回毎回、こっちがちゃんとしようと覚悟を決めた途端に、訳分からんこといって逃げやがって…」
額まで指を伸ばして、がっちりと未久美を確保する。
そこで俺は、異常に気づいた。
「あれ?」
首に右手を回して、額に左手を添える。
身長の関係で、抱き寄せるような形になった。
「お、お兄ちゃん!?」
「だぁ、もう、じっとしてろ!」
暴れる妹を無理やり押さえつける。
みぞおちの辺りに後頭部をおしつけて固定し、未久美の髪を掻き分ける。
「む〜ぁ〜う〜」
訳の分からんうめき声を上げる未久美。
普段は自分からくっついてくるくせに、なんでこんなに嫌がるんだか。
とりあえず、その姿勢のまま五秒。
「ど、どうしたの?」
「お前、熱ある」
素人診断でも分かるほど、額が熱かった。
「そ、そんなの無い…」
「即座に答えたって事は、自覚症状があるだろ」
「むぅ…」
言い当ててやると、未久美は口をつぐんだ。
暴れたのもこの所為か?
抱き寄せた体も、いつもより熱い。
「そこになおれ」
「え、何で?」
「この体勢じゃ布団敷けないだろ」
「でも私、里美先生の家に帰るから」
…帰ると来たもんだ。
「お前の家はここだろ」
「あ、うん」
未久美の言葉を訂正する。
少し、回した腕に力が篭った。
「だから帰って来るのもここだ。 ほら、おかえり」
「た、ただいま」
今更ながら挨拶を交わす。
そして、未久美が唖然としてる間に、体を離して布団を取り出しに向かう。
「あ…」
「何か言ったか?」
「な、何でもない」
布団を敷いている間、未久美はきちんと座って待っていた。
その姿を横目に確認しながら布団を敷く。
そしてそれが終わった俺は枕を叩いて未久美に呼びかけた。
「ほら」
「べ、べつに、寝るとは言ってないもん」
「起きてたら直らないだろうが」
「だから、里美先生の家に…その、行くから」
「風邪引いたまんまか?」
「このぐらい平気だもん」
「じゃなくて、先生にうつるぞ」
「う…」
卑怯だとは思ったが、敢えてそんな言い回しをする。
未久美はしばらく思い悩んでいたが、やがて諦めたのか、こちらへと歩いてきた。
「と、その前に着替えるか? て言うか、お前の服、でてった時と同じだろ」
「ちゃ、ちゃんと洗ってもらったから汚くないもん!」
まぁ、用意も何も無しに出て行ったから当然なんだが、指摘すると、未久美は熱以外の理由で赤くなって反論した。
「洗ってる間は?」
「里美先生の服借りた…」
こいつのちんちくりんで貧弱極まりない体と、先生の、あの体が着る服のサイズが合うとは思えないが…。
まぁ、大きい分には無理すりゃ何とかなるわな。
秀人が喜びそうな状況だ。
下着なんかはそうは行かないだろうが、まぁ、つっこまないでやるか。
「で、どうする?」
「…着替えてくる」
不貞腐れたまま、未久美が呟く。
部屋を出て、パジャマのある風呂場へと向かう。
そのまま玄関から出て行ってしまうのではないかと密かに心配したが、どうやらそれは無かったらしい。
さっきの脅しめいた言葉が聞いてるのか。
布団の横に座り込んで考える。
…卑怯だけど、ま、仕方ないよな。
事実は事実だし。
自分に言い訳をしていると、その間にもう未久美は着替え終わって、部屋の外へ戻ってきていた。
「…相変わらず早すぎないか?」
風呂場と部屋の往復分ぐらいしか時間がかかっていない気がする。
移動しながら脱いだり着たりしてるんだろうか。
が、着替えの俊敏さとは打って変わって、未久美はこちらに近づこうとしない。
「ほら、早く布団は入れよ」
「むー」
急かすが、未久美は唸るだけだった。
「んな警戒しなくても、別に何もしねえっての」
「するもん」
冗談で言ったつもりだったが、未久美は余計警戒を強めて、扉の陰に隠れてしまった。
「お、俺が何するってんだよ!」
未久美の予想外の反応に戸惑い、俺は思わず腰を浮かす。
今まで何回かかけられてきた嫌疑だが、本人に言われたのは初めてだ。
雪村とか雪村妹とか秀人とか、最近だと里美先生とか、まとめて俺を何だと思ってるんだ。
すると未久美は、扉の影から顔を半分だけ出して、呟いた。
「…看病、するんでしょ」
「は?」
未久美の言葉が理解できずに、俺は中腰のまま固まってしまった。
看病? そりゃぁ確かに、具体的には考えてなかったが、するつもりではいた。
それを考えれば何もしないって言葉は矛盾する。
でもさっきのあの何もしないって言葉は、「貴方に害を及ぼすようなことは何もしませんよ」という意味であり、んなもん日本人として十二年暮らしてれば理解できることだろう。
「とんちやってんじゃねえんだよ。 良いから寝ろ」
未久美はただ俺の揚げ足を取ったのだと解釈して、更に催促する。
だが、未久美の態度は変わらなかった。
「俺に世話焼かれるのが、そんなに嫌か」
「い、嫌じゃなくて、ダメなの!」
ため息まじりに吐き出すと、未久美はどもってそれを否定した。
が、その言い換えがどんな意味を持つのか、俺にはとても理解できない。
「そうかいそうかい…」
理解を諦めて、俺は未久美に歩み寄ることにした。
精神的ではなく、物理的な方法で。
二歩、三歩進んで未久美に近づく。
そして、腕を伸ばした。
体をひねって逃げようとする未久美の背中に手を回す。
「えっ?」
掴むというより触れるといった感じの俺の手つきに、一瞬未久美が体の緊張を解いた。
その隙に、膝裏にも手を回して、一気に持ち上げる。
技名お姫様抱っこ。 自分の意思でこれをやるのは二度目だ。
ただもちろん、ロマンティックな雰囲気だとか、そういうものは存在すべくもない。
相手が未久美だという以前に、腕の中のこいつが、釣り上げたてのマグロのごとく、激しく暴れるのだ。
「ダ、ダメなの! ダメ、ダメなんだもん!」
「うるさい。 病人に嫌だのダメだの言う権利はねえんだよ」
適当にあしらいながら、布団へと歩く。
「あるもん! お医者さんは患者さんにダメって言われたら手術できないんだもん!!」
「だぁぁ、知るか! 俺は医者じゃねえっての!」
一応乱暴になり過ぎないように考えながら、俺は未久美を布団の上に落とした。
「うきゃっ」
小猿のような悲鳴を上げながら、布団に転がる未久美。
中に閉じ込める勢いで、布団を頭から被せてやる。
未久美は暗闇が怖い性分からか、急いで頭を出した。
「ほれ、深呼吸」
即座に言ってやると、未久美はそのとおりに深呼吸をした。
吸って、吐く動作で、力が抜けて心地の良さそうな顔をする。
枕に頬を擦り付けさえした。
…このリアクションを見るに、相当疲れているようだ。
「なぁ、もしかしてあんまり寝れなかったのか?」
「お兄ちゃんがいなくても…寝られるもん」
その表情を見られた所為か、未久美は急いで転がり、俺に背を向けた。
「それも、聞いたけどな…」
言いながら、俺は未久美の横で胡坐をかく。
未久美はとりあえず、人に抱いててもらえれば眠れるようになったようだ。
勿論それは、信頼できる人間に限るだろうし、人並みになったともいえないわけだが…。
将来は一人でも普通に寝られるようになったり、もしくは、好きな奴の腕の中で寝たりするのだろう。
「どうしたの?」
言葉を切った俺を訝しんで、未久美がこちらを向く。
忙しい奴だ。 こっちが見られたくないときにばっかり敏感になりやがって。
「…別に。 手がかからなくなって万々歳だよ」
「じゃぁ、何で怒ってるの?」
「お前が、馬鹿なことするからだよ。 そんなになるまで、無茶なんか…」
未久美に問い詰められる前に、話題を逸らす。
だが、このことで俺が怒りを覚えているのも本当だ。
その辺のところを問い詰めようと、俺が口を開きかけたときだった。
「馬鹿なことなんかじゃないもん!」
突然、布団を跳ね上げて、未久美が俺を睨んだ。
その剣幕に、こちらの苛立ちも忘れて一瞬呆けてしまう。
「お、おい?」
「だって、こうするしかないんだもん!」
未久美が叫ぶ。
その言葉は、未久美が見せる本音の尻尾だった。
今まで散々尻尾だけを見せて逃げられていたが、今回は逃げられるような体勢ではないし、未久美もそのつもりはないようだ。
いや、そういう状況になったことは、未久美自身叫んだ後に気付いたようだが。
「何でそうなるんだよ」
「…お兄ちゃんは前に、私はどうやっても妹なんだから、安心しろって言ったけど、あっちゃんみたいに、妹じゃなくても妹みたいになっちゃう子だっているし、お兄ちゃんはそういう子に優しくしちゃうし」
覚悟を決めたのか、ただ焼けっぱちになっただけか。 未久美はとつとつと語り始めた。
正直、何でこんな話題が出てくるのかさっぱり分からない。
しかし、俺はそれを、黙って聞く事にする。
訂正したい部分もあったが、この際だしな。
言いたい事は全部言ってくれたほうが、俺としても楽だ。
「優しいのは、お兄ちゃんは優しいから、しょうがないけど、でも、それで置いてかれるのは嫌で、お兄ちゃんはそんなこと無いって言ってたけど、でも、お兄ちゃんが前と違ってて、優しいのは嬉しかったけど、なんか、私が素直にごめんなさいって言わなかったから、おにいちゃんが居なくなって、怖くて」
言ってることが、支離滅裂になってきた。
それに、声が所々でつかえる。
それでも、いや、そのおかげか、未久美の不安が伝わってきた。
「お兄ちゃんが帰ってきて、お仕事してるフリしてたけど、全然頭には入ってなくて、でも、お兄ちゃんが褒めてくれて、お仕事で褒めてもらったのは初めてで、でも、あっちゃんのこと言われたら、何にも考えられなくなって嫌って言っちゃって、里美先生のとこに行くときに、お兄ちゃんに、本当は謝ろうとしたけど、でも、お兄ちゃんはもう私より進んでるんだって思い出して、また怖くなっちゃって」
未久美が語る、こいつ視点の俺の行動に、また自己嫌悪に陥りかける。
だが、ともかくそれは後だ。
せっかく未久美が話しているのだから、俺はしっかり聞かなければいけない。
「お兄ちゃんが笑ってくれるのは良いけど、でも、離れちゃったら意味ないんだもん! 側に居たいから、あっちゃんより、里美先生より、だから、がんばるしかないと思って…」
「だから、勉強か…」
「勉強、お兄ちゃんが褒めてくれたから、これしか思いつかなくて、夜も、里美先生が抱きしめてくれたけど、お兄ちゃんじゃないから、あんまり眠れなくて。 でも、勉強止めちゃったら、またお兄ちゃんと離れちゃうから…」
未久美の口が閉じて、部屋に沈黙が満ちる。
つまりこれが、未久美の行動理由の全容という訳だ。
何かを言う前に、ため息が漏れた。
頭を整理してから、言うべき言葉を選ぶ。
「お前には、俺がそんなに変わったように見えるか?」
「うん…」
「ならそりゃ間違いだ」
「そんなことないもん…お兄ちゃん、私が酷いこといっぱい言っても、怒らないし」
「馬鹿。 我慢してたんだよ」
「我慢?」
「ったりまえだろ。 あんな訳の分からんことぽんぽん言われて冷静で居られるほど、俺は人間出来てねえっての」
「わ、訳の分からないことって…」
「俺の中身なんてそう変わっちゃいねぇよ。 そりゃ、本当はもっと大人になったほうが良いとは思うけどな」
そうすれば俺も、こんな回り道をせずに問題を解決できただろうし。
そもそも、こんな喧嘩だって起きなかっただろう。
こんな考え自体が、既に子供じみてるいるのかもしれないが。
「だから、お前も無理なんてする必要ないさ。 大体それで体調崩すなんて、本末転倒だろ」
「それは…」
納得できないのだろう。
未久美が何か反論しようとする。
俺はそれを遮って、言葉を続けた。
「あんまり言いたくないけどな。 言うぞ」
「え、うん…」
「お前は、天才だ」
「え?」
「お前が本気でなんかしたいと思ったら、誰も止められやしねえよ」
これは、勿論酷い妄言かもしれない。 いくら天才と呼ばれても限界はあるし、物理的に不可能なことだってあるだろう。
それでも、俺はそれを未久美に信じて欲しいと思った。
俺も、信じてしまおうと思った。
「お前は数学が好きなんだろ。 そういう好きなことを、他の目的の為の手段にして欲しくない。 お前だって、楽しくないだろ」
「でも、私はお兄ちゃんも好きだもん…」
こいつの好きっていうのは、何なのだろう。
信頼の情なんだろうか。 今まで世話をしてきたからか。
もしくは本当に恋愛感情。 そうだと錯覚した依存。
この際どうでも良い。
こいつの為になるんだったら、今ならどれだって受け入れよう。
でも…。
「俺が好きだっていうなら、離れたくないって言うなら、とことんくっついてくれば良いだろ。 俺の為だとか言って無理に勉強なんてしても、俺は絶対褒めないからな」
「お兄ちゃん…」
「その代わり、お前がやりたい事の為に、やりたい方法で一生懸命になるなら、俺はいつでもお前を褒めるし、応援もする。 お前の好きな物とか、好きな人とか、そういうのを犠牲にしなくたって、俺はお前の側にいるから」
言って、俺は未久美の頭に手を置いた。
未久美の体がビクリと震える。
安心させるように、そのままじっとする。
額が熱い所為か、そのまま融けて混ざってしまうような気もした。
「うぅ、あぅ…」
やがて、未久美が声にならない嗚咽を漏らし始めた。
そのまま布団を手繰り寄せ、それを硬く握り締める。
ポト、ポトと布団に水滴が落ちた後、すぐに水滴は大降りになった。
何か言う前に、俺は上半身を屈めて未久美の頭を引き寄せた。
「えぅ、ひっく。 うぅ、うぅ」
まるで赤ん坊がぐずるように、頭だけを突き出した不安定な姿勢で、未久美は頭をグリグリと動かした。
俺も、背骨を曲げた不恰好な姿勢で、左手で未久美の頭をかき抱きながら、右手で撫で始めた。
慰め方なんてこれしか知らない。
雪村妹に自分で言った台詞だが、まぁ、事実なのだから仕方があるまい。
髪の上を滑るように指を滑らせ、髪を梳いてまた頂点へと。
未久美に俺の気持ちが少しでも伝わればと思いながら。
未久美の不安を少しでもすくえたらと思いながら。
それを、何度も繰り返した。
三十分ほど経ったか。
未久美の嗚咽が収まると、俺は何度か背中を叩いた。
頭を開放すると、未久美はぐじぐじと掛け布団で顔を拭う。
上げた顔を見ると、眼と鼻が赤くなっていたが、その顔は照れ笑いのようなものを浮かべていた。
「ほら、布団被れ」
俺がそう言うと、未久美は素直に布団を被る。
しばらく、位置を正しているのか、もぞもぞと音が続いた。
「あー、まぁ、あれだ。 こんだけ言っておいても、やっぱり今回は俺が悪かった」
こちらも急に照れくさくなって、間を持たせるようにしゃべりだす。
「今度からはちゃんとお前の相手もする。 そりゃ、他の奴と話すなとか言われても無理だけど、そこは…まぁあきらめろ」
最後に謝って締めようとしたが、どうにも格好がつかない。
思わず苦笑になる。
布団から顔を出した未久美もつられて笑った。
「うん…。 でも、あきらめない」
「なんだそりゃ」
「お兄ちゃんが私が一番大好きになるまで、がんばる」
「…分かってるよな」
「うん。 もう無理はしないから大丈夫」
「そうか。 んじゃ好きにしろ。 まぁ、俺がお前に惚れるなんてある訳無いけどな」
「む〜! そんなの分からないもん! 来年には私だって凄いスタイル抜群のかっこいい女教師になってるかもしれないし!」
「あー、はいはい。 とりあえず現状がちんちくりんだってのは認めるんだな」
「今だって、本気を出せばお兄ちゃんなんてイチコロだもん!」
「はいはい」
「むぅ〜〜」
いつも通りの、馬鹿な会話に安心する。
やっと、日常が戻ってきた。
それを実感した。
と、そこで、未久美がふと真顔になって、ぼそりと呟いた。
「お兄ちゃん…」
「ん?」
「…あっちゃんに、謝りたいな」
「おう、風邪が直ったらな。 だから、今日は寝とけ」
未久美から出た言葉に、我が事のように嬉しさがこみ上げて、笑ってしまう。
俺も今すぐこの言葉をあいつに伝えたくなったが、それを堪えて未久美を諭した。
「うん、分かった…」
程なくして、未久美は寝息を立てながら眠りに落ちた。
それを見届けてから、俺も大の字に寝転ぶ。
晩飯は…今日はもう良いか。
明日の朝、未久美と一緒にお粥でも食おう。
布団も敷かず、俺はそのまま眠りに落ちた。