いもうとティーチャー☆
第四十限:妹ケツイ
俺は決めた。
あきらめないで、とにかくあいつと向き合っていこうと。
家のドアの前に立ち、改めて自分の決意を確かめる。
「とはいえ…」
怒ってるんだろうなぁ、あいつ…。
今朝の目覚ましを勝手に止めたことといい、遅れて帰ってきたことといい。
辺りは既に暗くなりはじめている。
謝るのが先だよな、やっぱり。
ここで考えていても仕方がない。
とりあえず入ろう。
「ただいまー…」
玄関を開けるが、電気がついていない。
電気無しだとさすがに暗い時刻なんだが…。
しかし、鍵は開いている。
見れば、俺たちの部屋の扉から光が漏れていた。
なんだ、いるのか。
俺たちは普段、部屋にいる場合でもリビングの電気はつけっぱなしだ。
両親は帰ってきたときに電気がついていたほうがいいとか言っているし、大体俺も未久美もだらしない。
ついでに未久美は暗いところを怖がるので、俺が帰ってくる頃には家の中は明るくなっている訳だ。
どうでも良い事と言えばどうでも良い事で、ちょっとした些細な変化でもあるわけだが、それが今の俺にはひどく不安に感じる。
その感情にせかされて、俺は早足で部屋の扉に近づいた。
「未久美…?」
他人の部屋に入るような違和感を感じながら、扉を開ける。
妹は、しっかり部屋の中にいた。
振り向いた顔も、いつもどおりの間抜け。
というか驚き顔。
俺が帰ってきたことに気づいていなかったようだ。
「あ、お兄ちゃん…」
言って、それから固まる。
別に固まるところじゃないだろ。
「…ただいま」
「…おかえり」
もう一回言ってみると、言葉は返ってきた。
ただ、未久美はそのままじっと俺の顔を見続けている。
見つめているうちに、顔全体にだんだん力がこもって、最後には唸り声まで聞こえるような表情になった。
「む〜」
実際唸っている。
「なんだよ」
「…なんでもない」
「そんだけ唸ってて、なんでもないはねぇだろ」
何か言おうとしたのか?
だとしたら何を。
「なんでもない」
「目覚まし止めたことか? お前を置いてったことか? それとも帰りが遅れたことか? …それとも」
「なんでもないの!」
思いつく理由を羅列する俺を、強い調子で未久美。
その剣幕に二の句が次げなくなる。
言い終わっていないセリフも宙ぶらりんのままだ。
変な緊張感と共に沈黙が続く。
未久美自身それに耐えかねたのか、もう一言付け足す。
「今お仕事中だから…」
未久美の手元を見ると、たしかにそれっぽい書類が広げられていた。
…ていうかテストの採点用紙じゃねえか、これ。
名前欄には、2年3組北山翔子と書いてある。
「2年って、お前の担当じゃないだろ」
「里美先生に…頼まれた」
不貞腐れた調子で、未久美は言葉を返した。
里美先生は、俺ら3年を担当する数学Uの他に二年の数学も担当しているらしい。
って言うかこいつが割り込んだおかげで、彼女の担当がそんな編成になったらしいが。
本人に不満は無いんだろうか。
「…見ちゃダメ」
「ん、あぁ…」
未久美が俺を睨みながら、手元の用紙を隠す。
考え事をしながら、目線はテスト用紙に行ってたらしい。
まぁ、二年のだから俺には関係ないんだが、見られる側にしてみりゃ気分は良くないわな…。
あんまり良い点じゃなさそうだったし。
とにかく目を逸らす。
「そういえばお前、飯は?」
「出かけるから、いい…」
相変わらず、未久美の声には張りがない。
今日置いていった事が、そんなに応えているのだろうか。
「でかけるって…、こんな時間からどこに行くんだよ」
もう日も暮れたって言うのに。
社会人っつったって、まだ12なわけだし、夜遊びなんて早すぎるだろ。
それなら喧嘩中なんてことは関係ない。
しっかり説教せねば。
「里美先生の家…」
「はぁ?」
と、脳裏で不良になった妹を想像しているうちに、思わぬ名前が出てくる。
「この紙を渡して、そのままお泊りしてくるの…」
「里美先生の家って、何処だよ」
「3つ先の駅で待ち合わせするから、大丈夫」
俺の言葉に何を察したのか、未久美は釘を刺すように大丈夫、と。
そりゃぁ、先生がうちに来るわけじゃないってことは安心したし、送っていこうかという考えは見事に出鼻をくじかれた訳だが。
見透かされたようで少し複雑だ。
それともこいつは、いつも俺の考えてることなんて分かっていたのだろうか。
俺がこいつを見くびろうとしていただけで。
…くだらない。 なんでそんなことばかり思いつくんだ。
「ま、それなら平気だわ…な」
釈然としないまま、俺は未久美の言葉に頷くしかなかった。
未久美は何か言いたげに口を動かしたが、結局机に向き直って書類に目を通し始めた。
赤ペンがテスト用紙の上でキュッキュと音を立てながら動く。
先ほど注意されたことも忘れ、俺はその動きをぼんやりと眺めた。
解答用紙の隣には正答が印刷された紙もあるが、未久美はほとんどそちらを見ず、機械のように淀みなく、手を動かしている。
既に答えを暗記しているのか。
それとも問題を見ながら解いてしまっているのかもしれない。
妹にはどちらも充分可能なように思えた。
こいつ自身も暗記力か計算力に自信があるから、こんな芸当が出来るのだろう。
妹が天才であることの証明。
「なんだ、平気じゃないか…」
それを見ても、今の俺には特別な感慨は沸いてこなかった。
どこかホッとして、ため息とともに呟く。
「なに?」
不審そうな顔をして、未久美が振り向く。
「ん、いや…」
俺はこんなことにいちいち腹を立てて、バカな意地を張って…。
「お前も頑張ってるんだと、思って、な」
一言だけでは納得しそうもなかったので、さらに付け足しておく。
ご機嫌伺いのリップサービスのようで、言ってすぐ顔を背ける羽目になったが。
「お兄ちゃん……どうしたの?」
横目で覗いた未久美の目が、信じられないものを見たかのように開かれる。
「俺が褒めるのが、そこまで意外かよ…」
「うん」
「お、お前なぁ」
躊躇いなく頷いた未久美を見て、俺は思わず情けない声を出した。
こいつは俺のことを何だと思ってるんだ。
褒めたことなんて今までだって…。
と、思考を飛ばしてみるが、すぐ俺はこの間の、雨の中での雪村妹とのやり取りに思い当たった。
奴曰く、俺は教師だとか天才なこいつを認めたことがない。
ついでに言ってしまえば、褒めたこともない。
「…初めて、だよ」
うつむき加減に、未久美が呟く。
その声に嬉しさのようなものを感じ取ったのは、俺の幻聴ではないはずだ。
胸が痛む。
こんなことでこいつが喜ぶんだったら、俺はもっと言ってやればよかったのだ。
変な自尊心を守るためにここまでこいつを追い詰めて、その所為で雪村妹だって巻き込んで。
何処が未久美と雪村妹の問題だ。
一番の原因は俺じゃないか。
「お兄ちゃんは、わたしのこと嫌いなんだと思ったのに…」
再び未久美の声が沈んだ。
「何で、そんな風に思うんだよ」
「だって…この前嫌いなんでしょって言ったら、バカって言って、あっちゃん追いかけたし…」
未久美が雪村妹と喧嘩をした日のことを言っているのだろう。
確かに俺は、あの時未久美の言葉をその一言で切り捨てた。
だが、アレは…。
「…バカ」
「ま、またバカっていった!」
いかにもショックを受けた、という表情をしてから憤慨する未久美。
その声と思考に、脳が内から外から痛くなる。
なのに胃に感じていた重りのような鬱屈は消えていた。
結局呆れたような顔になった俺は、表情を取り繕うこともせず未久美に言った。
「お前のことが嫌いなんて、そんなわけないだろ」
「でも…」
「いくら妹でも、嫌いな奴のためにここまで悩んだりしねぇよ…」
俺はこいつの才能に嫉妬を感じている。
そりゃさっきは平気だったが、あんなのは俺がその感情を意識しているからであり、ついでに言えばそれが俺とは直接な関係がないからだ。
横に並べられなければそんな気持ちはわいてこない。
こいつが渡米していた半年間で、それは充分に実感した。
「悩んだ?」
「あぁ、悩んだとも。 情けなくうじうじとな」
半ばやけに気味に答える。 訳の分からない自分のテンションに、耳が熱くなっていくのを感じた。
「そう、なんだ…」
やはり嬉しそうな未久美。
こっちが悩んだっていってるのに喜ばれるのはなんだが、同時に未久美の表情が和らいできたことには安堵する。
そこでふと、脳裏を掠める思い。
…あの話題を持ち出しても、大丈夫じゃないか?
いや、しかしどうだろう。 今それを言っては、そのためにこの雰囲気を作ったみたいだし。
そりゃぁ…最終的にはそれも目的ではある。
それに、自分だけがこいつと和解してしまうことに、俺は恐れに近い罪悪感を持っていた。
あいつやこいつより先に、自分が楽な立場になってしまうことが許せない。
良いや、言ってしまえ。
「なぁ、雪村妹と…」
「やだ」
場の空気が一瞬で凍りついた。
例えば役所の受付。
もしくは淀みなく落ちるギロチン。
今までの温まりかけた空気も何のその。
「むぅぅ…」
未久美の表情はスイッチが入ったように不機嫌になり、俺を睨んだ。
頭に渦巻いているのは、怒りか、さっきまでの俺に対する疑いか。
こいつにしてみりゃ裏切られたような気分なのかもしれない。
「私だって考えてるもん。 いっぱい、いっぱい…」
未久美の声が揺れる。
瞳が潤む。
それを見て、俺は愚かにも今更思い出した。
「…そりゃ、そうだよな」
こいつだって、友達と喧嘩して平気でいられるような奴じゃないんだ。
自分でも悩んでたに決まっている。
やっぱり軽率だったか。
ついでに露骨過ぎたのかもしれない。
さっきまでの自分の言葉に偽りなどないと思っているが、それを台無しにしたのもまた自分だ。
嫌になってくる。
それ以上何もいえないまま、俺は床に落ちていたコートを拾い上げた。
「お兄ちゃん?」
「…送る」
「え…、大丈夫だよ」
「良いから」
戸惑った未久美の声を押し切って、コートを羽織る。
そして未久美の顔もみず、先に外へ出た。
肺の中の空気を、一刻も早く入れ替えたかった。
空気を入れ替えたからと言って、それを使う中身がマシになる訳ではないが。
ともかく、玄関を背に深呼吸。
が、生暖かい風は気分を一新するという物ではなかった。
目の前にはエレベーター。
下りのスイッチを押して、今度は一回だけため息をつく。
腐っていてもしょうがない。
とりあえず下手にフォローするのはやめて送ることだけを考えよう。
下からエレベーターが到着し、扉が開く。
同時に玄関の扉が開き、中から不機嫌をあらわにした未久美が出てきた。
あんな言い方をしたものだからついて来ないかもしれないと思ったが、一安心と言ったところか。
「ほら、早く乗れよ」
なんといって良いのか分からず、結局はぶっきらぼうな台詞が口から出る。
その言葉には返事をせず、未久美は黙ってエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まって、エレベーターは下る。
降りる沈黙、謎の圧迫感。
他人と乗るよりずっと居心地が悪い。
せっかく入れ替えた空気も濁ってしまいそうだった。
エレベーターが一階につく。
外に出てもう一度深呼吸をしても、やはり心臓にしこりが出来たような違和感が残った。
一歩踏み出しながら首を後ろに向ける。
未久美はちゃんとついてきているようだ。
視線がこちらに向けられ、言うべきことも見つからない俺はそのまま視線を周囲に移した。
日は完全に落ちていたが、街灯が過剰なほどに歩道を照らしている。
だが、特に見るところもなく、結局俺は未久美を何度も盗み見ることになった。
後ろを歩く未久美は、しょげていると言う形容が一番当てはまりそうだ。
勝手な俺に憤慨するぐらいでちょうど良いと思うのだが…。
何で俺は、こう余計なことを言うのだろう。
未久美は未久美で本人曰く『いっぱいいっぱい』考えているのだから、後はそれに任せておけばよかったのだ。
姫地だって言っていた。
未久美は今混乱しているだけだと。
だから、今は放っておいたほうが良いと。
折角態度も軟化してきたわけだし。
しかし、本当にそれで良いのか?
確かに未久美の誤解は解いたが、俺にとって肝心な天才である未久美を認めるというお題目は、まったく果たされていない気がする。
そりゃ褒めはしたが、それでこれからこいつに苛つかなくなるって訳でもなし。
言葉の問題って訳でもないよなぁ…。
だからこそ、俺は姫地に宣言した訳だし。
むぅ…。
「おにいちゃ…」
後ろから、頼りない声が届く。
肝心の未久美を視界に収めていないことに気付く。
ったく、考えてるそばからこれだ。
いい加減自虐の言葉も尽きたな。
長いため息とともに、俺は後ろを振り向く。
未久美は、早足で俺を追いかけてきていた。
トタトタという足音が、すっかり暗くなった道に響く。
「むぅぅ…」
「悪かったな」
未久美に謝るが、奴はそれに反応もせず唸り続けている。
その手が、俺の服の裾を掴んだ。
握り締めた。
「って、コラ。 皺になるだろうが」
振りほどこうとして、未久美の深刻な顔つきに気付く。
あくまでもシリアスさを感じさせない幼い顔立ちだが、その顔に出来うる限り深い悩みを刻んでいるように見えた。
「置いてっちゃ、やだ…」
ぽつりと、未久美は呟く。
その表情がこの前の、雨の中の雪村妹と重なって、それがどういうことかに思い至る前に俺は頭を振ってその気持ちを追い出した。
後ろめたさのような後味の悪さだけが残る。
「わ、悪かった…」
「…やっぱり、このままじゃダメ」
それが何だったのか考えているうちに、未久美が何かもう一言呟く。
「あ、なにがだ?」
聞き返すが、それきり未久美は黙り、何の反応も返さない。
ただ、服を握った手にさらに強く力が込められただけだった。
駅構内は、まだまだ帰宅途中のサラリーマン達で賑わっていた。
さっきのこともあった訳だし、いっそう未久美とはぐれないように注意する。
「お前、金は持って来てんのか?」
「あ…」
切符売り場の前で思いついた俺の問いかけに、未久美が間のぬけた声を出す。
…やっぱり。
俺はズボンのポケットから財布を引っ張り出した。
「出かけるときはちゃんと持ち物確認しろって…いつも言ってるだろ」
未久美の代わりに切符を買って、本人に手渡す。
むぅと唸りながらも、未久美はそれを受け取った。
「あと、帰りの料金。 切符は一人で買えるよな?」
思い出して五百円玉を反対の手に渡す。
両手に置かれたそれらを見比べ、未久美は膨れた顔のまま一言呟いた。
「子供扱いしないで」
「子供料金じゃまずかったか?」
未久美の切符は、しっかりと半額になっていた。
年齢的には問題ないはずだが、もしかしたら飛び級の場合まずいのかもしれない。
確か中学生以下と書いてあった気がするし。
「まぁ、外見的にお子様なら問題ないだろ。 中学に上がっても、俺もしばらくはそれ使ってたぞ」
「切符のことじゃなくて!!」
「ん、あぁ…」
すっかり検討違いなことを考えていたが、未久美の指摘で奴が何を言っているのかに気付く。
保護者的な俺の発言が気に食わなかったらしい。
いや、実際に似たような立場な訳だが。
「子ども扱いって、元はといえばお前が…」
「とにかくダメなの!」
…聞く耳すらもってねぇ。
いつも言ってるだろ、こんなこと。
何で今更気にしだしたのか。
不可解な行動に戸惑っていると、未久美は突然駆け足で俺から離れる。
そして改札口の前に立つと、くるりとこちらにふりむいた。
物凄く邪魔な場所だ。
それを構いもしない未久美は、改札口を背にし、俺に向かって叫ぶ。
「絶対、絶対、追いつくもん!」
「は?」
追いつくって何だよ。
確かにここに来るときにあいつを置いていったりはしたが、そのあと服に皺が残るほど接近されたんだが。
何か? アレはあいつの生霊で、本人は未だに50メートルでも100メートルでも後ろにいたってのか?
浮かぶのはこんなくだらない冗談だけだった。
脳は既に、あいつの行動の意味を推察することを全面放棄している。
考えている部分もあったことはあったのだが、それらは例外なくこんがらがり丸まって、片隅に転がされていた。
それらが何故混乱したのか考えているうちに、その考えもからまってしまう。
しばらく俺を睨んでいた未久美だが、俺が何も言い返さないことを見ると、余計憤慨した顔で思いっきり叫んだ。
「ばかーーー!!」
一瞬子供かという返しが思い浮かんだが、当然子供なので却下。
そもそもあの台詞、俺がこの前出て行ったときに言ったものと同じだ。
あいつもそれの仕返しで言ったのだろうか。
言った当人の未久美は、叫んだあと尚も俺の反応を待ったが、結局は背後を向いて改札口を通った。
切符入れるのに手間取っていたが。
最後にもう一回俺を睨んで唸ると、やはりそのまま奥へと駆けていった。
「…はぁ」
未久美の姿が見えなくなってから、ため息をつく。
結局、進展があったのかも分からない。
「ま、とりあえず…」
呟いて周りを見回す。
未久美の奴が何度も叫んだ所為ですっかりこちらに注目が集まっている。
しかもその大半は、何故か非難めいている。
…俺が悪いって言うのかよ。
結局は周囲の視線から逃げるように、俺は早々に駅を去ることになった。