いもうとティーチャー☆

第三十三限:妹ネガオ


「あ、これいいなぁ…」

隣にいる秀人が、本棚から一冊のマンガ本を取り出した。

それに釣られて、俺も本棚に目をやる。

マンガ本は並んでいるが、ここにあるのは大半が雑誌だ。

文庫本等に至っては、話題になっている数冊しかない。

だが別に、これを見て現代人の文字離れを指摘するとか、そういった気も起きなかった。

第一ここは、本だけを専門に売っている場所ではないのだから。

「何だよ、衝動買いか?」

俺達が今いるのは、デパートの中の本売り場。

それも、前に妹と行ったような大きいところではない。

婦人服売り場などに比べて、こういうスペースが小さくなるのは必然だろう。

「言うな、一目惚れだ! これもショッピングの醍醐味だろう?」

そういって奴が誇らしげに俺に見せたのは、成人指定が燦然と輝く、正にそういった種類の本だった。

「そういうもんを、堂々と掲げるな」

俺は一歩引いて、奴に忠告する。

いつもなら、問答無用に殴っているところだ。

しかし、中学生でもあるまいし、こういったものを持って興奮していると思われるのは勘弁したい。

ましてや、今の俺たちは学校帰りなために制服だ。

「ああ、俺としたことが、こんなすばらしい絵を描く絵師を放っておいただなんて。 この肌のぷにぷに感がたまっ!!」

ごんっ。

やっぱり、耐え切れずに殴ってしまった。

いや、放置しておいたら、もっと大変なことになってしまっただろうが。

レジでおばちゃんが睨んでいる…。

性質の悪いガキが騒いでいるとでも思われているのだろう。

物怖じしない…というか、社員の教育を疑いたくなるような、無遠慮な視線が痛い。

気まずくなって視線を彷徨わせると、新作のコーナーには、いくつかの本が平積みされていた。

「この本…」

その中の一つを手に取る。

毎回買ってるマンガ本だ。

新刊出てたのか…。

俺と、妹が共通で読んでいるマンガだ。

俺は設定やら、場面場面が好きなだけなのだが。

妹のほうは、ぶっきらぼうで言葉も悪いが、困った人間は放っておけないというベタベタな設定の、主人公の友人が好きらしい。

目つきも悪くて、俺はさっぱり愛着がわかないのだが、人の趣味というのは分からない。

「どうした、それ買うのか?」

秀人の言葉に、俺は自分の財布の中身を照らし合わせる。

財布の中には諭吉も稲造もいない。

源氏物語が描いてあるような、やたらレアな札も無い。

漱石が一人きりだ。

後は小銭がジャラジャラと…。

「はぁ…、無理だな」

「金が足りないのか?」

「いや、というか、これから足りなくなる」

計算完了。 多分誤差があるだろうが、とりあえずこの本の代金分は残らない…。

「ふぅん…、なんか買うのか?」

「ああ、人参二袋にジャガイモ。 チキンカレーにするから鶏肉100gで良いとして、昨日残りを考えても、後一品ほしい…」

「買う物ってそれかよ!?」

「だからここに来たんだろ。 今日はタイムセールでレタスが安い」

本来なら、こういうものは近くのスーパーで済ませてしまうのだが…。

とりあえずいくつか野菜と卵が残ってたはずだし、無難にサラダでも作るか。

だがそうなると、トマトが欲しい所だな…。

いや、でもサラダってただでさえ余るし、別に良いか。

「…なんだよ」

気がつくと、秀人がじっと俺を見ていた。

とりあえず、その本はいい加減離せ。

「いや、なんか、お前って偉いなぁ…」

「…馬鹿にしてんのか?」

「んにゃ、ただ単に、チンピラには似合わないスキルだと思っただけだ」

「お前、ここ出たら殴るからな」

似合わないことぐらいは、自分でも承知している。

だが、こういうことを覚えないと、俺は今まで生きてこれなかったのだ。

誇張ではない。

あの無責任夫婦に育てられれば、誰だってそうなる。

見た目ちんちくりんなうちの妹だって、簡単な料理なら作れるくらいだ。

まぁ、死活問題にかかわるのだから、当然といえばそうなのだが。

「あ、未久美先生だ」

不意に、秀人が本売り場の向こうを見ながらつぶやいた。

いつもの俺なら、はじかれた様にそちらを見るわけだが。

騙されるか。

「そう何度も、タイミング良く現れるかよ」

「本当だって、ほら」

秀人が指差した先には、本当に未久美先生こと、片野未久美。

うちのちんちくりん妹がいた。

10メートルほど先の、食材コーナーにだ。

いつも通りの寸足らず。

俺達には気付いていないらしく、きょろきょろと周りを見回しながら、とたとたと歩いている。

表情は、何故か不満顔。

「先生も買い物かなぁ?」

あいつが夕飯の食材を買うなんて、殊勝な真似をするはずが無い。

探しているとしたら、マンガ本ぐらいだろう。

しかし、あいつは何時の間に寄り道なんてスキルを覚えたんだ?

何も言わずとも、まっすぐ家に帰ってくる奴だから、門限については特に注意しなかったんだが…。

「いや…」

「違うのか?」

「独り言だから気にすんな」

「…ボケの兆候だぞ、それ」

とりあえず無言で秀人を殴って、俺は思い直した。

レジのおばちゃんのことも、とりあえずは無視だ。

あいつの行動について注意するなんていうのは、良いことなんだろうか?

あいつは確かに俺の妹だが、同時に俺の教師だ。

…天才でもあるわけだしな。

そこのところはちゃんと評価して、奴の自主性というものを育むというのも、実は重要な事なのではないのだろうか?

大体、何時までもあいつをそういう風に扱うから、あいつは…。

「老人通り越して死んだか?」

「…」

「まぁいいや、こんなやつより先生だ…」

「あ、おい! 自主性が大事だ!」

「妄想人のセリフは理解できん! やっほーー!未久美センセ〜〜〜!!」

俺が止めるのも聞かず、秀人は手を振って大声で未久美を呼んだ。

振られている手には、もちろん先ほどのエロ本が。

その大声に、近くにいた主婦たちまでこちらを向く。

羞恥心というものが無いのか、こいつには。

俺は奴を反射的に羽交い絞めにし、口をふさいだ。

…その後で、とっとと他人のフリをすれば良かったと後悔したが。

で、その大声に気付いたのは、もちろん主婦やパートのおばちゃんだけではない。

呼ばれた人物、件の未久美もだ。

「!…」

奴はまず、秀人の大声にビックリして、こちらに気付いた。

秀人を唖然とした目で見、後ろで奴を押さえつけている俺を発見する。

そして未久美は、俺を睨みつけた。

5秒ほど、たっぷりとだ。

近くにいれば、いつもの「む〜」という唸り声も聞こえたことだろう。

「あれ、何で睨まれてるんだ?」

秀人が当然の疑問を挟んだところで、未久美は急に後ろを向く。

そして、全速力でその場から退避していった。

構図的には、主婦の好奇の視線に耐えられなかったようでもある。

「いっちまった…」

「…そうだな」

「お前、なにやらかしたんだ?」

「…別に」

新しくなにかしたわけじゃない。

まぁ、つまり。

俺はまだ、あいつと仲直りできていないのだ。

 

 

せっかく乾かしてもらった服を、また濡らしながら家に帰ったのは、もう辺りが真っ暗になった頃だった。

飛び出した後で道が分からないことに気付いたが、道中親切なお姉さんがいてくれて助かった。

家の電気はついていない。

部屋のドアを開けると、そこも真っ暗。

街の光でかすかに明るいその中で、未久美が寝ていた。

布団も敷かず、赤ん坊の様に丸まっている。

俺は風呂場で軽く体を拭いてから、着替えてまた部屋に戻った。

「未久美…」

傍によって、呼びかけてみる。

返事は無く、代わりに聞こえるのは、規則正しい寝息だけ。

部屋が暗い所為で、表情はよく見えない。

どうにかしようと意気込んでいた俺には、少々肩透かしな光景だ。

だが、逆にほっとしている自分にも気付く。

帰ってきたら、未久美が泣いていなくて良かった。

帰ってきたら、未久美と言い合わなくて済んで良かった。

いい意味でも、悪い意味でも安心してしまっていた。

罪悪感のようなものに突き動かされた俺は、無意識に未久美の頭を撫でていた。

自分のワンパターンさに、苦笑がもれる。

「むぅ…ん」

不意に、未久美が寝返りを打って、その頬が頭を撫でていた俺の手に触れた。

やわい頬を滑る手が、一瞬、その感触に引っ掛かりを捉える。

それが涙の跡だと直感的に悟った俺は、思わず手を引っ込めていた…。

やっぱりさっきまで、泣いてたんだな。

「こんなときに限って、何で誰もいねぇんだよ」

未久美がこんな時にいない両親に、当たってみたりする。

だが分かってる。

二人は仕事であって、俺を信頼して、未久美の世話を任せているのだ。

まったく、情けない。

あいつの、雪村妹の前でちゃんとしてみせると宣言したのに、いざとなったらこの有様か。

しかも相手は、現在何の反応を返すわけでもないのだ。

それでこの調子なんだから、先が思いやられる。

「だから、弱気になるなっての」

自分の頭を強めに叩いて、気分を切り替える。

宣言しちまったんだから、やるしかないだろ。

まぁ、今の状態じゃ、できることなんてほとんど無いわけだが…。

「…と、このままだと風邪引きそうだな」

いくら春だからと言っても、何も掛けずに寝たんじゃ風邪引くだろ。

雨の中走ってきた奴が言うセリフじゃないが。

押入れから布団を取り出して、妹の横に敷く。

今の未久美が寝ているのは、部屋の手前。

スペースとしては妹の活動拠点だから正しいんだが、これではあいつの布団が敷けない。

かといって、何回も動かすのは酷だし。

「しょうがない。 俺のスペース使うか…」

本来は俺の寝る場所である部屋の奥に、未久美の布団を敷く。

いくら部屋の中が雑然としていると言っても、俺の私物の中に、未久美の桃色の敷布団があるのは、どうにも違和感だ。

この布団も、こんな場所は不本意だといっている気がする。

「で、次の問題は」

その準備万端なスペースに、どうやって未久美を運ぶかだ。

せっかく寝ているわけだし、なるべくなら起こしたくない。

まだ話す勇気が無い…というわけではないぞ、決して。

未久美を跨いで、また部屋の手前側に戻り、奴の横に立膝で座る。

「…転がすか」

思いついた案としては、これだ。

未久美の体をころころ転がして、布団へ乗せるというもの。

距離も近い。

二、三回転で済むはず。

そう思って、未久美の体の下に手を差し入れてみたが…。

「転がらねぇ…」

未久美の体は丸まった姿勢でいるために、想像したように簡単には転がらなかった。

無理をすれば出来なくも無いが、そうすると、ぶん投げるのとほぼ変わらない結果になってしまう気がする。

「…ったく、しょうがねぇ」

俺はため息をついて、そのまま息を吸った。

プラン2の実行だ。

未久美の下に入れていた手を、首と膝裏に移動させる。

「よっこらせっと!」

爺臭い掛け声をかけて、俺は未久美を抱き上げた。

「久し振りにしたな、これ…」

重すぎず、軽すぎず…。

未久美の体重は、俺の予想した範疇に収まっていた。

昔はよくやってたんだがな。

あいつにせがまれてのお遊びを含め。

しかし、この抱え方がお姫様抱っこという名称だと知って以来、どうにも気恥ずかしくてやっていない。

まぁ、それを知ったのが、未久美の持っていた漫画であり、その中ではお姫様抱っこをした男女が、地球の公転に逆らうがごとき勢いで、アホみたいにくるくる回っていた。

その姿が目に焼き付いてしまっており、この格好はイメージが酷く悪いのだ。

腕の中のこいつが、それを見ながらニヤニヤ笑っていたのも、これをしなくなった一因だ。

「しっかし、よく眠ってるな…」

窓に近づいたため、さっきまでよく見えなかった未久美の顔がよく見えた。

世界の終わりのような顔をしているわけではなく、何も考えていないかのような、いつもの幸せそうな寝顔だ。

ただしその目は、一目で分かるぐらいに腫れている。

「…泣き過ぎなんだよ、お前は」

言いながら、布団の上に未久美を降ろす。

掛け布団を掛けて、未久美がやはり寝ているという事を確認したら、もう他に出来ることも無い。

ついでに色々走り回ったりした所為で、体がだるい。

「寝よう…」

未久美の時より幾分乱雑に布団を敷いた俺は、ノロノロとした動きで布団に潜り込む。

未久美の顔も見ずに目を閉じると、今日のことが、順序も秩序もなく思い出された。

雪村妹は言った。

未久美があんなに怒ったのは、妹という立場を取られると思った所為だと。

なぜそれに拘るかと言えば、俺がそれ以外の未久美というもの、つまりは教師であるこいつとか、天才であるこいつを認めない所為だと。

「だったら、俺は…」

目を開けて、再び未久美を見る。

俺は、教師をやっているあいつを、めいいっぱい褒めてやれば良いのだろうか?

難しい数式を解くあいつに、私では足元にも及びませんと、ひれ伏せば良いのだろうか?

なんだかそれは、違う気がする。

そんなんで、本当に解決なんてしないと思えた。

いや、こう思うのは、俺が高慢なだけなのか。

…なんだか混乱してきた。

「むぅ…」

悶々としたまま、夜は更けていった。


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