いもうとティーチャー☆
第二十九限:妹アメフリ
走って、走って、走って。
雨の中を、ひたすら、濡れながら、しゃむに、水溜りを踏みながら、息切れを起こしながら、走って。
街中で、不意に、傘をさして歩く団体とすれ違って、目の前の水溜りを避けて、息を切らして、止まって。
今、俺は。
「…なんだ、冷静だ」
気づけば、そこは、知らない通りだった。
俺がもともと、こういう人間だということもある。
雨のおかげで、体と頭が冷えた所為もある。
ともかく俺は、自分を客観視できる心理状態まで、冷めてしまった。
幸か不幸か…。
さっきまでの自分の行動を、鑑みてみる。
と。
「何やってんだか…」
それが、さっきまで必死こいて走っていた自分への感想だった。
と、いうか、これ以外に言い様がない。
「何のために、外に出たんだよ」
俺が外に出たのは、未久美の言葉によって出て行った、雪村妹に追いつくため…のはずだった。
だが、今の俺はといえば、こうやって雨の中で当てもなく歩いている。
雪村妹に追いつこうとするならば、駅に行けば良かった。
雪村の妹である以上、家だって同じのはずだ。
たとえあいつが別の交通手段…、自転車とか、もしくは運転手つきのリムジンに乗っていたとしても、結局追いつけるはずはないので、駅に向かうのが、一番正しかった。
…なんとなく、後者のほうが圧倒的に想像し易いんだが。
ともかく、それにもかかわらず、おれはここにいる。
確かに最初は駅に向かったはずだ。
だが、一番最初の曲がり角で、小さい子供のような人影を見たのが、間違いだった。
その娘が雪村妹でないのは、二つ目の曲がり角で気づいた。
だが、その後は慣性だ。
頭では分かっているのに、家の方向まで戻ることを、俺は拒んだ。
引き返すことを禁止し、走ることを自分自身に強制されたこの体は、方向だけを頼りに、ひたすら突き進んだ。
で、気がつけば、見知らぬ場所。
しかし、本当に間違えただけだろうか?
本当は、雪村妹にも会いたくなかったんじゃないのか。
「アホか…。 それじゃぁただ、未久美から逃げただけになっちまうだろ」
飛び出す前にそんな事を考えたような気もするが、そんなはずはない。
俺が、あいつから逃げた?
違う。
ただ、この町に慣れていなかっただけだ。
何せ、越してきたのも2年と少し前だし、ちょっとした買い物も駅前なので、地理も詳しくない。
道を間違ったのは、あくまでも過失だ。
「とりあえず、迷ったのは確かだな…」
駅がこっち側だと決め付けて走ってきたため、方向も怪しい。
もしかしたら見覚えのある通りなのかも知れないが、雨で雰囲気が変わって、さっぱり分からない。
この年で迷子になるとは…。
だが、たとえまっすぐ家に帰れるとしても、俺は帰る気もなかった。
「あのバカ…なんであんなこと言ったんだよ」
雪村妹が、俺を取る?
確かにあいつが来て、未久美と話す時間は減ったが…。
あんなの、小さい子供の駄々じゃねぇか。
「あいつも、あいつだ…」
その駄々を真に受けて、そのまま帰ってしまった雪村妹。
あんな理不尽なことを言われたのなら、言い返してやれば良い。
もしくは、未久美の前で俺を思いっきり貶してみるとか、罵倒してみるかだ。
それで、あいつの誤解も解けただろう。
だが、雪村妹は、そのまま黙って帰ってしまった。
「何やってんだよ、どいつも、こいつも…」
意味もなく、つぶやく。
横目に見える店の軒先で、OLらしき女性が雨宿りしていた。
…心なしか、俺にいやぁな目を向けている。
雨の中をぶつぶつ言いながら歩く男がいたら、そりゃぁ、不審がりもするだろう。
だが、俺はあえてそのまま歩いた。
冷静になりかけていた頭が、なにやらまた沸騰しかけていたし、あんな目を向けられているところで休む気も起きなかったからだ。
あそこにいる女に向けて、当てつけめいた感情も芽生えていた。
見るなら見ればいいだろ、ちくしょう。
一回ぐらい睨んでやろうと、視線をそちらに向ける。
しかし、彼女はすでに、俺を見ていなかった。
俺の行こうとしていた道の先に、先ほどと同じような視線を向けていた。
「あっ…」
俺は思わず、間抜けな声を上げてしまった。
その視線を向けられていたのは、雪村…妹だった。
姉譲りの軽くウェーブのかかった髪が、雨に濡れて真っ直ぐになってしまっていた。
それにもかまわず、雪村妹は、ただただ雨を見上げている。
この雨の中で俺の呟きが聞こえたわけは無いと思うが、俺が声を発した瞬間、雪村妹がこちらを見た。
振り向いて最初に見えた表情は、無。
ただし、いつもの壁のような無表情ではない。
例えば、その壁が残らず撤去されてしまったような、そして、その際に、壁の奥にあったものまで廃棄処分にされてしまったような、そんな無表情さだった。
ただ、一言で言うなら、空っぽ。
それがしっくり来た。
その尋常ではない様子に、俺は一瞬とんでもない不安に襲われた。
だが、俺の姿を認識したとたんに、地面から這い出たように、雪村妹の感情が生まれる。
まず、戸惑い。
それから、どうとって良いか分からない、細かい揺らぎ。
それを確かめようと、俺は雪村妹に、小走りで近づいた。
俺が近づくたびに、さまざまな感情が過ぎっていた雪村妹の顔に、方向性が決まっていく。
「…どうして」
そして、俺が雪村妹に触れられる距離まで来たとき、あいつに宿っていた感情は。
「どうして私を追ってきたりしたんですか!? 未久美さんを置いて!!」
怒り、だった。
それも、今まで見たことが無いような激しさだ。
だが、その声に、俺はどちらかと言えば安堵していた。
「何だ、けっこう元気じゃねぇか。 ただ自分に酔ってただけか?」
「だ、誰がそんなこと…!」
思ったより、雪村妹が慌てた。
図星だったのかもしれない。
「んじゃ、迷子か?」
「子供だからと言ってバカにしないでください。 こんな所で迷う人間が、どこにいますか」
急にまじめな顔で切り返された俺は、危うく水溜りの上で膝をつきそうになった。
「それより、話を逸らさないでください。 …なぜ、あの状態の未久美さんを放って、私を追ってきたんですか?」
いまのやりとりで、すっかり気勢を削がれたのか。 雪村妹は逆に弱々し過ぎる口調で、俺に再度問いかけた。
さっきの様子から考えても、虚勢を張らなければ、この状態が今のこいつの素なのだろう。
「あいつが癇癪起こすのなんて、いつもどおりだ…」
あいつが誰かに嫉妬して怒るなんて、日常茶飯事だ。
きっと、アレだって同じことのはず。
「だから、ちょっと待ってから帰れば、頭も冷えて、いつも通りに戻るに決まってる」
「…本当に、そう思っているのですか?」
「それに、あんなふうに飛び出されたら気になるだろ。 何でお前は何も言わないで出てったんだよ?」
俺は雪村の質問には答えず、逆に質問で返した。
俺の態度に、雪村妹が何か言いたげに口を開いたが、それをため息に変えた後、言葉を発した。
「…大げさなようですが、あれは未久美さんにとって、存在理由に関わる事柄なんです」
「な、何でそんなことになるんだよ」
それは、俺が振った話題ではなく、自らの話の続きだった。
しかし、その言葉の重さに、俺はその話を止めることができなかった。
「貴方が妹以外の未久美さんを、好きになってくれないからですよ。 天才の未久美さんも、先生の未久美さんも」
「っ! …そんなこと」
「たとえ貴方がそう思わなくとも、未久美さんはそう思い込んでいる。 だからこそあの方にとって、妹という位置づけは絶対なんですよ」
癪だが、雪村妹の指摘は、俺にそうなのかもしれないと思わせる要素があった。
俺は、未久美が教師をやったり、尋常ではない頭の良さをみせたりした時、一回も褒めたりしたことが無かった。
それは例えば、俺の勝手な劣等感だったり、その嫉妬だったりした。
だが、その所為で、あいつは持ってしまったんじゃないだろうか。
つまり、自分は妹で無いと、俺に認められないという認識を。
「だからこそ、その妹と言う居場所を取る私の行為は、未久美さんには決して許せないものだったんですよ…」
「だからなんだよ。 そのせいで未久美から離れてくってのか? それじゃ、本末転倒だろ」
「自業自得です。 私は分かっていたんですから。 お義兄…貴方に近づきすぎれば、こうなるということは…」
「…お前」
「私の甘えの所為で、兄妹がうまくいかなくなるぐらいなら、自分から身を引きます…」
そういうと雪村妹は、段々と顔を歪ませ、俯いていった。
「要するに全部甘えなんですよ! 未久美さんと友達になったのも、貴方につらく当たったのも、こうやって話してるのも、全部、全部、全部…!!」
「…」
こいつが、何から逃げて俺たちに甘えたと言うのかは、俺にはまったく分からなかった。
だから、俺にはかけてやれる言葉がない。
それがもどかしくて、俺は雪村妹の頭に手をやる。
「止めてください…」
「手持ち無沙汰だ。 気にすんな」
そう言って、俺は雪村妹の髪を撫で始めた。
「同情を誘ったつもりは、ありません…」
雪村妹は弱弱しく頭を振って、俺の手を避けようとした。
そのたびに、髪が吸っていた水滴がはねる。
だが、俺はかまわず撫で続けた。
「私は、未久美さんでは無いんですよ?」
「俺は、慰めかたなんて、これ以外知らねぇんだよ…」
言ってて情けなくなったが、事実なんだからしょうがない。
しかし実際は、こいつを妹扱いしたことでこんな事になっているのだ。
それなのに自分の妹と同じ慰め方を雪村妹にすることで、俺は何となく、酷く不誠実なことをしているような気分になっていた。
その思いを払拭したくて、俺はおどけて言ってみる。
「あいつの場合は、ここでグリグリとかしてくるんだが、お前もするか?」
「誰が、しますか…」
だが、その言葉に反して、雪村妹は俺の服をつかんで、顔を寄せた。
「お、おい。 言ってることとやってることが違うぞ」
自分から言ったことだが、雪村妹に服を掴まれると、動揺してしまったのは俺のほうだった。
「いいですか、こういう、時はですね…」
雪村妹が、顔を伏せたまま言葉をつむいだ。
その語尾は、震えている。
「男は、黙って…、服のひとつぐらい、貸せば良いんですよ…」
やたら古風なことを言って、雪村妹は顔を、俺の服に押し付けた。
そのセリフが終わってすぐに、雪村妹の肩が断続的に震え、雨音に混じってしゃくり上げるような声が聞こえるようになる。
俺は手持ちぶさたのまま、雪村妹の髪の表面を撫で続けた。
撫でながら、考える。
俺がしたのは、やっぱり逃げだった。
こうやって会えても、俺はこいつに対して、その場しのぎの慰めしかできないのが良い証拠だ。
それに、未久美のこと。
あいつだってまだ、こうやって泣いているのかもしれない。
せめて一言かけておけば良かっただなんて、やたら都合の良い考えが頭をよぎる。
でも、やっぱりそれだけじゃいけないとも、おれは思う。
自分のためにここまで泣いたり、怒ったりしてくれる友達と、このまま別れるなんて、絶対に間違っている。
こいつも、そんなに思える相手から、自分で離れようとするなんて。
納得できない。
「…ぃっく」
しばらくして、雪村妹は俺の服でごしごしと擦ってから、顔を離した。
気恥ずかしいのか下を向いたままだったが、覗けた鼻が赤くなっている。
俺は、撫でていた手を止め、雨に濡れた髪を掻き揚げた。
そのまま、上を見上げて額をぬらす。
あまり、まじまじと見てよいものではない気がしたからだ。
それに、これから言うセリフが、気恥ずかしかったこともある。
「その、なんだ。 …またすぐお前らが遊べるように俺が何とかしてやる」
「え…」
俺の言葉に、雪村妹が顔を上げた。
髪が張り付いた顔とか、真っ赤になった鼻と頬とか、水気が残る目元とかが視界に入ったが、俺はまたすぐ視線を上に戻した。
「責任だ何だって言うなら、俺にもあるみたいだしな。 だから、何とかしてやる」
自分で言って、随分傲慢なセリフだと、自嘲の笑みがこぼれた。
まぁ、これは宣誓だ。
雪村妹には余計な期待をさせるかも知れない。
だが、こう言ってでもおかないと、俺は今の未久美としっかり話せない気がした。
「うし、んじゃ、俺は帰るぞ」
その勢いのまま、俺は踵を返して爽やかに去ろうとした。
だが、雪村妹が俺の服を再度掴んで、それを阻む。
「何だよ」
「っすん…。 そちらの方向に、貴方の家はありませんよ」
雪村妹の鼻をすすりながらの指摘に、俺は止まらざるをえなかった。
そうだ、俺は迷子だったんだ。
慣れないことした所為で、こんなベタな間違いを…。
俺が現在位置を見失っていることに気付いたのだろう。 雪村妹は、息を詰まらせながら笑った。
貴重な表情だったが、こんなアホ臭いやり取りをしている自分の所為で、俺はそれを楽しむことができない。
雨の中というのが、余計バカらしさを強調する。
「それに、ここからなら私の家の方が近いですし、 シャワーぐらいなら貸します」
一旦気分が明るくなってしまえば、雨は人を、不思議と高揚させる。
雪村妹もそうなのだろうか。 いつもより数倍弾んだ声を出しながら、やつは俺が行こうとしていた方向へと歩いていった。
「まぁ、道もわかんねぇしな…」
返事も聞かずに歩き出す雪村妹の小さい背を追って、俺も歩き出した。
なんだか、これからのことを不思議と楽観視できる。
雨に浮かれたのは、あいつだけではないと言う事だろうか。
自然公園かと思うほどの大きな林を、家だと紹介されたのは、それから10分ほど後のことだった。