いもうとティーチャー☆

第二十八限:妹ユメウラナイ


俺が、今の未久美と同い年か、少し下ぐらいだった頃の話だ。

母がいきなり言ってきた。

「弟と妹、どっちが欲しい?」

何故か上機嫌に、膨れてもいない腹をさすりながらだ。

「どっちも要らないよ」

俺は、頭の重みに耐えながら答えた。

「みくみはねぇ、いも〜とがもう一人ほしー!」

しかし、その頭の重さの原因になっている、幼稚園児の妹が、無意味に叫ぶ。

俺の膝の上に立ち、さらに俺と向かい合って、わが頭を使ってバランスをとっている無理な態勢だ。

何故こんな格好になるのか、不思議でしょうがない。

「妹ができたらねぇ、いっぱい、いっぱい、いっぱいっぱい遊んであげるんだ〜!!」

…この頃はまだ、この語彙の少ない幼女に、とんでもない才能が秘められているなんて、思いもしなかった。

妹はきっとこのまま、あんぽんたんなまま成長していくに違いないと、俺も思いこんでいた。

だからこそ、奴がバランスを取るために、俺の頭をぐりぐりと動かそうが、我慢していたのだ。

「これ以上苦労が増えたら、過労死する…」

頭をぐらぐらと揺らされながら、俺は呟いた。

両親はやたら放任主義だった為、俺はもう一通りの家事をこなせるようになっていた。

夜泣きする未久美にミルクを与えていたのも、大抵は俺だ。

年齢が一桁の時に、育児ノイローゼを経験した人間など、めったに居ないだろう。

先生が妹だと言う人間の次ぐらいに希少なのではないだろうか。

未久美が俺にべったりなのは、その辺も関係があるのではないかと思う。

「赤ちゃんはいつ来るの?」

「ん〜、今日のお父さん次第ね」

母はニッコリと笑った。

今の俺であったなら、「子供の前で何言うんだよ!」とかつっこんだだろうが、その頃の俺はといえば

『お金とかの相談も、大変だろうしなぁ』

などと、違う意味で大人な考え方をしていた。

「てか、重いからどけよ!」

「きゃっきゃっきゃ、や〜だ〜〜!」

足の重みに耐えかねて膝を揺らすが、それは逆に、膝上の妹を喜ばす結果に終わってしまった。

その度に、支えになっている俺の頭が、グリグリと回される。

「おにーちゃん、もっとやってよー!」

「やだよ!」

思わず、頭に乗せられていた手を払いのける。

すると、当然そこを支えにしていた未久美はバランスを崩した。

幼児特有の重たい頭がぐらっと後ろに倒れ、それにつられて、体本体も倒れそうになる。

「あ、わ、馬鹿!」

咄嗟に、妹の腰を抱え込んで、こちらに引き寄せる。

そのまま受け止められれば最高だったのだが、なんせ俺も小学生だ。

奴の全体重をそのまま衝撃として受けた俺は、未久美もろとも後ろに倒れた。

「がっ!」

頭をもろにぶつけてしまい、涙が滲む。

俺は妹がもう一人出来ると、この痛みが2倍になるような気がしていた。

「おにーちゃーん、今の楽しかったー。もう一回」

が、兄のそんな苦労にも気付かず、未久美は既に俺の上に馬乗りになって、はしゃいでいた。

「できるか! ていうかしたくない!!」

「えー!」

不平を表すように、俺の上でどすどすと跳ねる未久美。

「ぐぇ! ば、お前、止めろよ! ぐぅ!」

そんな俺たちの様子を見て、母は。

「良いわねー。その調子で、新しい妹か弟とも仲良くしてあげてね」

などと、のんきな事をのたまわった。

「はーい」

「絶対いやだ!」

それに対して、俺達の答えは両極端だった。

「ダメよ、良幸。貴方にはちゃんと、赤ちゃんを育ててもらわなくちゃならないんだから」

「って、自分で育てる気ないの!?」

うちの親は、本当に放任主義だった。

…生まれたての赤ん坊に対しても。

「だいじょーぶ。みくみがちゃんと赤ちゃんのお世話するから」

「ばかっ!新しいのが来たら、ただでさえ大変なのに、その上お前の面倒なんて見れるか!」

未久美に赤ん坊の世話なんてさせたら、余計仕事が増えるに決まっている。

俺は確信していた。

「えっ、それじゃ、赤ちゃんが来たら、お兄ちゃんはみくみと遊んでくれなくなるの?」

「…まぁ、遊ぶ時間は少なくなるよ。お前だけの兄じゃなくなるし」

急に元気がなくなった妹を不信がりながら、俺は答えた、

すると未久美は、幼児が出来る限りで一番辛そうな顔になった。

「むぅー、それなら、新しい妹なんて要らない…」

そして、唸る。

俺が覚えている限り、これが一番最初に妹が唸り声を上げた瞬間だ。

そして、結局未だ見ぬわが弟か妹は、その日母と父が大喧嘩したとか何とかで、現在に至っても生まれる予定はない。

 

…ぃちゃん。

音が耳に入り、頭蓋を揺らして、俺に意識を覚醒させる。

音ではなく、声だ。寝ぼけた思考を、少し目が覚めた思考が訂正する。

おにいちゃん。

また、声。

さっきまで聴いていた声。

いや、さっきのは夢だから聴いていたんじゃない。

夢は見るもの。 じゃぁ、見た声か?

あれ、それも何かおかしいな。

お兄ちゃん。

三度目。

呼びかけた方は、もっと回数を重ねたのかもしれないが。

お兄ちゃん…ぃさま。

すると、さらに四回目。

が、そこに別の音が混じる。

いや、これも声だ。

お兄ちゃん…さま。

二つの声が、重なり合う。

どうやら、両方とも俺を呼んでいるようだ。

お兄ちゃん…様。

だが、片方の声が大きくて、もう一つは、後半しか聞こえない。

それが、何回も繰り返される。

お兄ちゃん、様。

お兄ちゃん! 様。

お兄ちゃん様。

お兄ちゃん様…ってば!

お兄ちゃん様、お兄ちゃん様、お兄ちゃんサマー。

おーにーいーちゃーんーさーまーー。

 

「って、変な呼び方すんな」

俺は、日よけ代わりに置いていた本を、のろのろと払いのけた。

すると、いきなり夕焼けに目を焼かれる結果となり、顔を思いきりしかめる羽目になった。

「む〜、やっと起きた」

「…寝惚けているのですか?訳の分からないツッコミなどして」

その夕焼けを、二つの顔が遮る。

未久美と、雪村妹だ。

二人はそれぞれ俺の右側と左側に座り、俺の顔を覗きこんでいた。

こいつらが交互に呼びかけてきた所為で、あんなに不快になる呼びかけになったらしい。

…確か今日は、俺が学校から帰ってくると未久美も雪村妹もいなかった。

俺は特にする事もなかったので、読書をしていたはずだ。

そのまま寝てしまったらしい…。

冬だったら、風邪でも引きそうなシチュエーションだな。

「で、何だよ」

起こされ方もあいまって不機嫌になった俺は、二人を見る。

「…無駄に人を睨まないでください。それともそれが素の顔でしたか?」

頭が回らず、適当な言葉を言い返せない。

寝ながら睨むというのも、間抜けな行為に思えたので、俺は体を起こした。

二人がいっぺんに視界に入るように、体を引く。

「うん、あのね、お兄ちゃん」

俺の準備が整ったと確認するや、未久美が口を開く。

さっきの夢の中には、幼稚園児の未久美が登場していた。

やたら鮮明な夢だったな…。

今まで思い出した事もなかったのに。

潜在的な記憶という奴だろうか。

しかし、アレと比べれば、確かにこいつも成長してるんだな。

いつまでも幼稚園並だと思っていたのに。

妙な感慨があった。

「遊ぼ、お兄ちゃん」

…やっぱり、評価は園児並で間違いないらしい。

夢でも現実でも、やることは同じかよ。

「もう、膝の上には乗せられないからな」

「む、何それ?」

「何でもねぇ」

やられる訳はないが、一応口に出して言っておく。

「…己の願望を言わないでください」

「違ぇよ」

で、言ってすぐ後悔する。

「…未久美さんを上に乗せて、存分に愛でようなどと…破廉恥な」

「つーかそれ、お前の願望だろ」

破廉恥はどっちだ。

…あまり、こいつらを二人きりにしないほうが良いのかもしれない。

「むー、それでね、お兄ちゃん」

「つーか、何でお前まで俺を起こそうとするんだよ。こいつとイチャイチャしてれば良いだろ」

「…未久美さんに言われて、仕方なくです。その証拠に、未久美さんが帰ってくるまでは放っておきましたから」

どうやら、雪村妹のほうが、未久美より早く帰ってきたらしい。

で、俺を起こしもせず、じっと待ってたと…。

ぴたっ。

俺は、思わず手で顔をまさぐった。

「…何をしているんですか?」

「もしかしてお前、俺の顔に落書きとかしてないよな」

額に肉とか…。

人が寝ているときにする事と言えば、定番の行為だ。

「誰が好き好んでそんな事をしますか。 …口の開いた寝顔なら、確認させていただきましたが」

俺にそう答えると、雪村妹はにやりと笑った。

生意気な顔だ。

「む〜、お兄ちゃぁん!!」

未久美の方に顔を向けると、こちらは怒っても怖くないと言う、雪村妹と反対の表情をしていた。

「はぁ…なんだよ?」

「だから〜、遊んでよぉ!」

さっき無視したのが頭に来たらしい。

未久美はだだっこのような口調で、俺にせがんだ。

「だ〜か〜ら〜、考えてみたら、何で俺がお前らと遊ばなけりゃならないんだよ!」

連日付き合っておいてなんだが、俺がこいつらと遊ぶ義理なんてない。

ただ何となく、毎日巻きこまれているだけである。

「…あっちゃんとは、いっつも遊んでるのに」

例の、格闘ゲームのことだろう。

最近の未久美は職員会議やらが重なり、帰りが遅くなっていた。

帰ってきても俺達はゲームに夢中になっていたので、それが面白くなかったのだろうか。

「アレは、勝負だ…」

そう答えながら、俺は言いよどんでいた。

少々の罪悪感もあるが、未久美の顔が、急に真剣になったからだ。

いつもの唸りもない。

「じゃぁ、お兄ちゃんとあっちゃんは、遊んでたんじゃないの?」

「えぇ、違いますとも。あれは、私がこの人に、お義兄様となっていただく為の勝負なのです。けっして、抜け駆けして遊んでいたわけでは…」

「…何時、んなことになったんだよ」

その未久美の変化にうろたえたのか、やたら弁舌になった雪村が俺を置いてまくし立てた。

つまりは、未久美をかけた勝負だと、雪村妹は言いたかったのだろう。

「…あっちゃんは、お兄ちゃんの妹になるの?」

その言葉に未久美が反応して、ポツリと聞く。

意味が分かっていないような、心底不思議そうな声音。

まるで、初めて聞いたかのような言い方だ。

喜怒哀楽が読みやすいのがウリの、未久美な筈なのに、その顔からは何も読み取れない。

その結果、雪村妹が、更に慌てることとなった。

「ええ、と、言うよりそれは、未久美さんと婚姻した場合の結果論なのですが…」

「俺は付属物か」

「決まっているでしょう。貴方は分と言うものをわきまえて下さい」

慌てている所為か、俺への言葉も、何時も以上にきつい。

「…」

何か言い返そうとしたが、俺は何も言わなかった。

俺はそこで、この前二人きりになった時の、雪村妹の、未久美への入れ込みようを思い出してしまっていたのだ。

こうやって慌てているのも、未久美がよほど大切だからなのだろう。

そう思うと、なんだかこいつの暴言も許せてしまっていた。

本当は、それと俺への暴言は関係無いが、微笑ましさが怒りを上回ってしまったのだから、仕方が無い。

一回タイミングを逃してしまえば、後は萎えていくだけなのが、怒りと言うものなのだ。

まぁ、そんなクールな自分に酔っている感も、否めないが。

「…何故黙るんですか。言いたいことがあるなら言ってください」

が、そんな俺の態度は、逆に雪村妹の目に止まってしまったらしい。

いつものように言い返してこない俺を、理不尽に睨んできた。

「その、今のセリフで傷ついたと言うなら、謝罪します…」

だが、その視線の強さも段々萎んで、最後には伏し目になった。

どうやら、言いすぎたと思って、罪悪感を感じているらしい。

「別に、傷ついてなんかねぇよ。心配してくれるなんて、良い義妹だな、お前」

その姿に、苦笑に近い可笑しさが沸き起こり、俺は心情そのままの表情で答えた。

「し、心配などしていません!」

すると、雪村妹は、照れてそっぽを向く。

また、苦笑がもれた。

いつもこんな調子なら、片野義妹と呼んでやっても良いのに。

…それはそれで嫌がりそうだが。

が、そんな俺の考えも、雪村妹の表情の変化に気付いた時、霧散した。

「あ、未久美さん…」

雪村妹の表情が、ひどい狼狽に変わったのは、そっぽを向いた先に、完全に話題から取り残されていた未久美がいたからだ。

雪村妹の様子から察するに、完全に忘れていたらしい。

「これは、ですね。その、決して、未久美さんを忘れていたわけでは無く…」

本人は必死で弁解しているようだが、思いっきり墓穴を掘っている。

未久美が、顔を伏せた。

「義妹として、お義兄様との親交をですね…」

「いもうと…。 いもうと?」

顔を伏せた未久美が、ぶつぶつと繰り返す。

言葉を転がして遊んでいるかのような、そんな様子だ。

「え、あう、あ、未久美さん…?」

雪村妹が、中腰になり未久美に近づこうとした瞬間…。

どんっ!

「きゃっ」

未久美が…雪村妹を両手で突き飛ばした。

やたら可愛らしい声を上げ、尻餅をつく雪村妹。

突然のことに、雪村妹はもちろん、俺も呆然とする。

「…らない」

「え…?」

未久美が、小さく呟く。

「妹なんて、いらない!お兄ちゃんを取っちゃうなら、そんなのいらないもん!」

そして、堰を切ったように、未久美は思いきり叫んだ。

「お前、何言って…」

「お兄ちゃんを取っちゃうあっちゃんなんて嫌い! …お兄ちゃんの妹になろうとするあっちゃんなんて、大嫌い!!」

その言葉で、時間が一瞬止まった。

夕日は何時の間にかこの部屋を照らすのを止め、代わりに強い雨音が、壁に反響した。

薄暗い部屋の中、雪村妹の顔が、歪んで、歪んで、そこで踏みとどまるように引き締まる。

「…申し訳、ありませんでした」

必死で息を詰めながら、雪村妹は言葉をしぼりだした。

そしてふらふらと立ちあがると、そのまま、振りかえることなく家を出て行ってしまった。

「…なんで、あんなこと言ったんだよ」

「あっちゃんが、お兄ちゃんを取っちゃうから…」

取り残された俺は、必死で思考を追いつかせようとしながら、表向きは亡羊に問い掛けた。

「…あいつは、お前の友達なんだろ」

「お兄ちゃんがいれば、友達なんていらないもん…」

すがりつくような未久美の視線が、ただただ癇に障る。

思考が追いつかない分、感情が、ぽつぽつと点を打つように広がり、俺の頭の中を占拠していった。

外で振る雨粒のように、それは、俺に染みこむ。

「…あいつは、お前以外に、頼る奴もいないんだぞ」

「……そんなの、どうでも良い。それより、遊ぼ」

未久美が、笑った。

その笑顔を目にした時、俺は立ち上がっていた。

おびえた表情をする未久美。

それを無視して、俺は部屋のドアに手をかけた。

「何でお兄ちゃんは、いっつも私に構ってくれないの!?他の子には、いっつもいっつもいっつも優しいのに!!」

俺の意図を察した未久美が、背中越しに叫ぶ。

「お兄ちゃんは、ホントは私のこと、嫌いなんでしょ!!」

言った後で、未久美がしゃっくりのような声を上げた。

多分、泣いているのだろう。

奥歯とドアノブが、ぎしりと軋む。

反射的に、ああそうだと言いそうな自分がいた。

天才の、兄貴よりもずっと優秀で、それを見せつけるみたいに、ちょろちょろと動き回る妹を、とことん傷付けてやりたいと願う俺が。

この機会をずっと待っていた気さえする。

俺の後ろ暗い感情を、全部こいつにぶつけてしまえる瞬間を。

「…この」

それでも、俺は分かってしまっている。

それがいかに理不尽で格好の悪いことか。

俺は気付いてしまっている。

悪いのは、決してこいつだけではない。

こいつには、なんの罪すらないのかもしれない。

俺はこいつを勝手に憎んで、そのくせこいつを突き放しきれない。

俺が全部いけないのかもしれない。

物事はそんなに単純じゃないと分かっていても、その考えが、頭から離れない。

「このバカ!!」

何に対して、何を罵ったかも分からない叫び声を上げて、俺はそのまま家を飛び出した。

雪村妹のことなんて、正直頭に無かった。

ただ、そのまま部屋にいれば、自分がどんな醜態を晒すか、分からなかったから。

ただ、妹につきつけられた問いから、逃げたくなったから。

ただ、雨に濡らされに、俺は外へと出た。

出て行く時に聞こえた未久美の泣き声を、雨は反響させている。

あの夢は警告だったのではないかなんてぬかす、愚かしくてご都合主義な思考を、とっとと消してしまいたかった。


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