いもうとティーチャー☆
第二十一限:妹ジュウショ
里美先生に呼び止められたのは、その日の放課後だった。
「良幸君、ちょっと良い?」
職員室前の廊下。 里美先生は、「ちょうど良かった」と呟いて、そう切り出した。
ちらりと、一緒に帰ろうとしていた秀人に視線をやる。
その視線に何を感じたのか分からないが、奴は「頑張ってこいよ」と意味深なセリフを残して、先に歩いて行ってしまった。
「えーと、平気です」
何故か二人で秀人の背中を見送りつつ、俺は言った。
それにしても、あいつはなんであんなに元気なのだろう?
一昨日奴に制裁を加えたときは、少しやりすぎたかと思ったほどだったのだが…。
「そう、じゃぁ図書室まで行きましょうか?」
…まぁ、あいつの体については、深く考えるのは無駄だろう。
俺は里美先生に頷くと、彼女について歩いていった。
途中、何度か振り返る。
前回のことを思い出し、またあいつが、後から来るんじゃないかと、内心びくびくしながら。
「今日は、小テストよ」
「…抜き打ちですか?」
「この前は、課題を渡し損ねちゃったしね。 もちろん成績なんて関係無いから、安心して」
そう言うと、先生は冗談めかして笑った。
図書室内の、いつもの場所。
もちろん未久美なんていない。
それが当たり前のことなんだが、どうにも違和感を感じてしまう自分が悲しかった。
「どうかした?」
「いえ、何でも無いです」
軽くごまかすと、目の前の問題に集中する。
いくら先生と話せる機会だとはいえ、ここで結果が出せないのでは、教えてもらってきた意味がない。
里美先生に申し訳も立たないと思い、真剣に取り組む。
カリカリ、カリカリカリ…。
俺の気持ちを察したのか、先生も黙って見守ってくれている。
そのおかげか、問題も事の他スムーズに解くことができた。
もっとも、未久美ならこんな問題、5分とかからないのだろうが。
「…終わりました」
「30分。 結構早かったわね」
そんな訳で、先生の言葉が変に堪える。
彼女なら、どれくらいで解けるのだろうか?
やはり、未久美には勝てないのか?
あまり気持ちの良い想像ではない…。
いや、あいつのことだから、解答欄を間違えたり、名前を書き忘れたりしそうだな。
何となく、先生と未久美が真剣勝負をしたとしても、あいつが勝つというイメージが沸いてこなかった。
大体、そんな事を差し置いても、先生は立派な教師だ。
単純極まりない思考回路やら、平らな体やら、未久美に勝てる要素などない。
…秀人なら、それが魅力だとか言い出したりするんだろうが。
そんなことを考えているうちに、先生は答え合わせを始めた。
「ここ、惜しいわね…」
彼女の呟きに、俺は腰を上げ、解答用紙を覗き込んだ。
そこまで、赤ペンで書かれた丸が、順調に並んでいたが、その進行を阻むように、ペケが一つ。
ただ記号が並ぶだけの簡単な問題。
顔を上げると、先生の顔が思いの他近くにあった。
彼女の眼鏡のレンズごしに、目が合う。
動揺しながら、もう一度視線を下に向け直し、俺は問題用紙、及び先生の顔から、自身の顔を遠ざけた。
椅子に座りなおして、元の姿勢よりも背筋を伸ばす。
「ちょっとした計算ミスね、これ」
「そ、そうですか」
そんな俺の様子には気付かずに、里美先生はペンで答えを修正した。
そして、その用紙を俺に向ける。
「 と、言うか、良幸君っていつも途中式を飛ばすから、こういうケアレスミスが出るのよ」
なるほど。
それは確かに、普段なら問題なくできるはずの、なんの捻りもない問題だった。
「そんなに焦らなくても、試験だったら十分に時間が余るわ。 まるで、誰かと競ってるみたいよ」
焦ったって、俺が? そんなはずはない。
大体、俺が焦ったところで、例えば未久美に勝てることなんて、ある筈はないのだ。
数学であいつに勝つなど、俺はとうに諦めている。
あの天才様と俺が競えるなど、考えていない。
「…どうかした?」
「いえ、別に…」
先生が怪訝そうな顔をする。
多少重くなった頭を振ると、笑って見せた。
「やっぱり変ね。 良幸君が爽やかに笑うなんて」
かなり深刻な顔をされる…。
こんなに真剣な先生の顔は、初めて見た。
慣れない表情をして、限界まで引き伸ばされた頬がピクピクと痙攣する。
「そんなに似合いませんか?」
「ふふっ、冗談よ」
「何だ…」
安堵のため息をつく。
冗談といわれなければ、この表情を一生封印しなければならなくなる所だった。
「でも、あんまり人前でやらないほうが良いわよ」
「…」
封印決定。
凍りついた俺に気付かないのか、それとも意図的に無視したのか分からなかったが、先生はそのまま採点を続けた。
先程と同じようなミスが2、3個あったが、俺の成績は優秀だった方だと思う。
「ところで良幸君」
「なんですか?」
心に中くらいの傷を残したが、俺はこの時間を楽しんでいた。
問題を解きながら、もしくは、それを半分以上放置して、俺は先生と話す。
俺が嬉しいのはもちろんだが、先生も時折笑顔を見せてくれ、これがプライベートなら良かったのにと、俺は夢想した。
いっそ、この手に持ったシャーペンを放り出してしまおうか。
「良幸君って、未久美ちゃんと一緒に住んでる?」
「…はい?」
実行に移すより早く、シャーペンは勝手にこの手から落ちた。
机の上に転がったそれを、俺はとりあえず拾う。
背筋を伸ばして、大きく深呼吸。
落ち着け、俺。
落ち着くんだ、俺。
落ち着けよ、俺!
「…なんでですか?」
何とか、動揺を押さえ込んで、逆に聞いてみる。
質問に質問で返すのは良くない。
よく両親に言われることだ。
が、それでも聞き返さずにいられなかった。
先生がなぜそんなことを言い出したのか、その心情が分からないからだ。
「この前、良幸君と未久美ちゃんを、同時に呼び出したことがあったでしょ」
「…ありましたね」
「あのときの二人、すごく仲が良かったわよね」
「あれは、仲が良いっていうより…」
その時の未久美は、先生に対抗心を燃やして、わざとベタベタしてきただけだ。
仲云々で言うなら、あのときの俺達の仲は、かなり悪かった。
それは置いておくとして…。
「そんなことだけで、俺達が一緒に住んでると思うのは、話が飛躍し過ぎじゃないですか?」
「違うのよ。 私が聞いたのは、それの所為じゃないの」
「じゃぁ…」
「その後、未久美ちゃんにプロフィールを書いてもらったの覚えてる?」
「!!…………はい」
この前の出来事が、思い出される。
あの時先生は、未久美のプロフィール用と、奴に用紙を渡していたのだ。
で、そこには氏名、年齢、住所やらを書く欄があって…。
「それで、そこに良幸君の住所が書いてあったのよ」
「…あのバカ」
「ん、何か言った?」
「い、いえ…」
これはもう、間違いない…。
未久美は、あのちんちくりんは住所を書けと言われて、何の疑問も持たずに自分の家の、つまりは俺とあいつの住所を書いたのだ。
「良幸君の家は、去年家庭訪問したから覚えているし…。 ここで間違いないわよね」
先生はしゃべりながら、問題用紙の中に隠されていたその紙を出した。
ちなみに、去年の家庭訪問は12月頃で、未久美もアメリカに行っていたので、彼女とは会っていない。
目を用紙に向ける。
汚くはないが、非常に個性的な字が、紙の上で踊っていた。
シャーペンで書いているのに、何故かクレヨンで書いたような幼児性を感じさせる筆跡だ。
通称、未久美文字。
その未久美文字で、うちの住所が書いてあった。
名前の欄には、もちろん片野未久美の名前。
「違う?」
「あぁ〜っと…」
どうすれば良いのだろう。
何故あの時気付かなかったのかと言う後悔は差し置いてだ。
脳をフル回転させて、どうにか良い言い訳を捻くり出そうとする。
と、いうか、ここで悩んでるのが、既に同意の証になりかねない。
とにかく、思いついたことを言ってみる。
「それを、何で俺に? 片野先生には、聞いてないんですか」
先にあのアンポンタンに聞いていたのなら、既に俺達の関係はばらされているはずだ。
…きっかけがあれば、すぐに自分から言いそうだしな、あいつ。
そういう意味では、先に俺に聞いてくれて良かったが。
「う〜ん、特に用事も無かったし。 どうせプライベートなことだから、何かのついでと思ってね」
そういうと、里美先生は苦笑した。
…そう言うものか?
確かに、未久美と俺が兄妹だとばれても、未久美はちゃんとした教師だ。
裏取引があったとしても、書類上は何の問題も無い。
学校を追い出されるなんて事も無いわけだ。
俺は、非常に居辛くなるが。
それなのに隠していると言う俺達の事情が、先生の言うプライベートな理由と言うやつだろう。
「だから良いわよ。 片野君も答えたくなければ、そうして」
…先生の言葉に、甘えたいと言う気持ちが起こった。
彼女だって、言いふらしたりしないだろう。
「あまり人には言えないものね。 天才とはいえ、12歳の子が恋人だなんて」
「はぁ!?」
が、続けて言った先生の言葉に、俺は思わず立ち上がってしまった。
「あら、違うの?」
「犯罪でしょ、それ! 教師だし、幼女だし!! 何で…」
何で素直に兄妹だって考えが出てこないんだ!? と言う言葉を、俺は途中で飲み込んだ。
が、とにかくそう認識されるのはダメだ。
彼女の中で、俺がちびっ娘と同居している、変態ロリコン野郎だと思われてしまう。
いや、むしろ今そう思われている!
そんな人間を前にして平然としている、里美先生の倫理観は何だ?
結構、そう言うことには頓着しない人なのか?
それでは済まされない気もするが、先生のイメージを保つ為、今はそれで済ませておこう。
「幼女って言うほど幼いとは思わないけど…」
とにかく、この誤解を解かなければならない。
方法は二つ…。
未久美が妹だと打ち明けるか。
それとも、未久美は俺にとってただの教師だと嘘をつくかだ…。
どうせばれるなら、足掻いてからにしよう。
俺は、まずは後者を選択することにした。
「…え〜と、間違えたんじゃないですか? 自分の家の住所」
「それで何故、良幸くんの住所になるのかしら?」
「それは、…あぁ、住所の話をしたんですよ。 近くに住んでるって事で」
苦しい説明と言うのは、こういうことを言うのだな。
本当に、話していて息苦しい。
「だからじゃ、無いかなぁ…。 ほ、ほら、良くあるじゃないですか。 物を書いてるときに耳に聞こえた言葉を書いちゃったり…」
とりあえず、適当な事例を出してみる。 適当も適当だ。
第一、他の人間にこんなことがあるなんて、聞いたことが無い。
「それで、間違って書いちゃったんじゃないですか…とか?」
俺が一方的にしゃべっている間、里美先生は黙ったままだった。
おかしな言い訳を言う俺を、無言で糾弾しているようでもある。
…気まずい。
何かしゃべってくれないと、本当に窒息死してしまいそうだ。
かといって、ここまで全部嘘でした、ごめんなさいとも、もう言えない雰囲気になっている。
素直に、本当の事を言ってしまえば良かったのかもしれない…。
「…なるほど、そう言うことね!」
が、俺が後悔し始めたところで、里美先生が声を上げた。
そして、手のひらの上に拳を落とすと言う、古い納得のポーズを取る。
「って、納得するんですか!?」
「ん、嘘なの?」
…ダメだ。 今まで築いてきた先生のイメージが、崩れていく。
いや、男子生徒と二人で個人授業をする事に、何も感じないってところで、うすうす感じてはいたんだが…。
この人は、疎いのだ。
もう、人の関係とか、嘘とか、全てにおいてニブチンなのだ…。
「いや、きっとそれが真相ですよ…」
なんだか、バカバカしくなって脱力する。
が、呆れると同時に先生を見ると、なんだか、彼女が可愛く思えてきた。
完璧だと思っていた里美先生に、そんな欠点があるとは…。
なんだか、俺だけが知っている秘密みたいで、嬉しい。
自然と、顔がにやけた。
「もう、笑う事無いでしょ」
その俺の顔をどう解釈したのか、先生が照れたような表情になった。
…可愛い。
彼女にそんな感想を持ったのは、今日が初めての気がする。
「あら、そういう笑顔なら良いわね。 恋しちゃいそうだわ」
そして、不意に言われた言葉に、俺の心臓が飛びあがった。
もちろん、鈍い彼女は、俺がどうしてそんな表情になったのか、俺が今、どんな気持ちになったのかも、分かっていないのだろう。
しかし、それも良いのではないかと思える自分がいる事に、俺自身も驚いていた。
こういうのを、なんと言うんだったか。
あばたもエクボ…か?
そんな、心地よい感覚を楽しんでいた俺だったが、「でも」と前置きされた彼女の言葉で、我に返ることになったしまった。
「でも、普通住所全部を書いちゃうなんてこと無いわよね。 もしかして、マンションは一緒なのかしら?」
「…え〜と」
やはり、先生は賢かった…。
俺の認識がぐらぐら揺れる中、そのポケットで、同時に携帯がブルブルと震えていた。