いもうとティーチャー☆

第九限:妹コジンジュギョウ


うちの学校の図書室は、奥にジャンル別に分けられた本棚、扉側が読書や勉強、または昼寝のための机が置かれている。

そして、彼女はその一番奥。たしか、宗教関係の資料が集まっているはずの棚の手前にある机にいた。

俺が机の前まで来ていたことを知ると、顔を上げて笑みを見せる。

「来たわね」

「ええ、来ましたよ。呼び出されたんですから」

そこにいたのはもちろん、俺に本日二度目の呼び出しをした張本人、里美先生だ。

机の上には、いくつかの書類が出してあった。

学生指導なんとか。一目見て、とりあえず『俺用』でない事は分かる。

「で、何故俺は呼び出されたんでしょう?」

軽く、とぼけてみる。

「あら、分からないの?なら、その手に持ってるものは何かしら?」

が、無駄だったようだ。

指摘された俺のその手には、一冊のノートと問題集があった。

「言ってみただけですよ…。それじゃぁ、今日もよろしくお願いします」

そう言うと、手に持ったノートと問題集を渡し、俺は里見先生と向かい合わせで座った。

それを手に取った彼女は、早速それを開いて眺め始める。

中には、俺が春休みを使って解いた数学の問題がズラリ。

俺はと言えば、少し緊張しながら、ただ彼女を眺めるのみだ。

「へぇ、本当によく頑張ったわねぇ。正直言って、これ全部を終わらせるのは、無理だと思ってたのに」

「…先生が、全部やって来なさいって言ったんですよ」

里美先生は、時々こんな酷い事を言う。

確かに俺は、雪村の言うように弄ばれているのかもしれない。

「ええ、そうね。それじゃぁ次は、個々の問題を見ていきましょうか」

そう言って、先生は用意してあった答えを出して、俺のノートを採点し始める。

こんな関係が、2年生の頭のほうから続いていた。

「…う〜ん、正解率が高いわね。赤点をとってたなんて信じられないくらい」

「先生が教えてくれたからですよ」

「その言葉、これだけ問題が出来てると、私にはお世辞にも嫌味にも聞こえるんだけど」

「素直に感謝の言葉だと思ってください」

俺が先生に数学を見てもらうきっかけとなったのは、担任であり、同時に数学の担当だった先生の授業で、見事に一学期の中間と期末で赤点を取ってしまったことからだった。

正直に言えば、俺は中学、高校と、数学でまともに点を取ったためしがない。

が、普通、そんな事で個人的に勉強など見てもらえるはずはないのだ。

はずがないのだが…。

 

ともかく、話は2年生の1学期末に遡る。

俺は、先生にとある課題を渡されていた。

赤点の補習課題って奴だ。

よく赤点を取る奴は自分の中のいやな記憶を参照。

取ったことが無いとか言う奴は、殴られるのを覚悟で取ってそうなやつに聞いてくれ。

ともかく、それさえちゃんと出せば、夏休みの補習授業は無いということなので、俺は嫌々ながらその15P程の課題をやり、それを職員室で里美先生に提出した。

彼女は、それを受け取り、ペラペラとページをめくる。

ハイ、OK。 そう言って終わるはずだった。

事実、俺の前の、秀人のやつはそれで終わった。

しかし、最後のページで、彼女の手が止まる。

しばらく何か考えているような顔で、里美先生はそれを見ていた。

何かまずいことでもあったのか?

不安になった俺が声をかけようとしたその時、彼女は言ったのだ。

「…明日、新しい課題を出すから、それをやって持ってきなさい」

有無を言わせない口調と言うやつだった。当時の、ただ若くて明るいだけ先生という彼女に対する認識が、だんだんと、無理やりに変質させられていく、記念すべきかは微妙な第一歩だ。

俺は、そのはじめて見た先生の意外な一面とやらに、見事に威圧されて、今度は渋々ながら、その課題をやったのだ。

提出は一学期の終業式の日。

今度こそ、それを出せば終わりのはずだった。

しかし、先生の返事は。

「次はコレね。 一週間以内に提出して」

「え、明日から夏休みですよ!?」

もちろん、俺は抗議したのだが。

「出さなかった場合は、来年、秀人君と同級生になる、もしくは彼を先輩と呼ぶことになるわ」

…従うしかない状況になっていた。

そしてもちろん、夏休みに課題を出しに行けば、次の課題が待っていた。

さらにその時には、課題に合わせて先生の講義がおまけ付き。

結局、俺はそんなことを繰り返して、夏休みの半分を削られたのだった。

そしてそれは、2学期が始まっても続いた。

 

「でも、この一年よく頑張ったわよね、良幸君も」

さりげなく回想に入っていた俺を、引き戻したのは先生の言葉だった。

しかし、それもまた回想の言葉だ。同じことを考えてたかと思うと、自然と頬が緩む。

俺も秀人も進級することができ、先生は担任ではなくなったが、それでもこの関係は続いているのだ。

「頑張らざるおえなくしたのは、誰ですか?」

「まぁ、確かに強制させちゃったけど、それでも本当によく来てくれたわ」

断わっていてもおかしくは無かった、そんなニュアンスを、俺はその言葉の中に感じた。

確かに、自分でもそう思う。確かに強制はされていたけれど、断わろうと思えば、もっと強く断われたはずだ。

そして、途中で止めることも出来た。

「今でも、数学は嫌い?」

「嫌いですよ。 …でも、この時間は好きです」

俺がこんなことを続けてこれたのは、すなわち、この人のおかげに他ならなかった。

数学なんてモノは大嫌いなこの俺が、夏休みを潰してまでここに来たのは、なんだかんだ言いつつ、先生に勉強を教えてもらう、この空間が好きになっていったからだ。

強制なんかで続いた関係ではない。

「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」

「リップサービスぐらいはしますよ。ただで教えてもらってるんですし」

「う〜ん、その言葉は蛇足ね」

あんな、下手をしたら意味を勘繰られそうなセリフを、この蛇足無しで言えるほど俺は勇敢でも軟派でもなかった。

先生にとっては蛇足でも、俺には決して蛇足ではないのだ。

「それじゃ、とりあえずここの解説をしちゃいましょうか」

「お願いします」

先生は美人だ。四捨五入して30になると聞かされて、24だと見切りを付けていた俺が驚かされた。

先生と話すと楽しい。間の抜けたところとか、意地の悪いところとか、そう言うところもひっくるめて、いくら話しても飽きが来ない。

先生は良い人だ。冗談でひどいことは言うけど、結局は誰にも優しい。進路の相談なんかも、熱心に聞いてくれる。

こんな先生が個人授業をしてくれるのに、嬉しくならないはずが無いのだ。

何故、そんな先生が俺なんかに個人授業をしてくれるのかは知らない。

実際、こういう形で勉強を見てくれるのは、俺にだけだ。

秀人が冷やかすのも、分かる気がしないでもない。

俺だって逆の立場なら勘繰る。美人先生が一生徒に対し、個人授業をする理由だなんて。

そんなもの、俺にだって謎だから、想像するしかないのだ。

ただの気まぐれという大いにあり得る考えから、俺への個人的興味と言う、青少年にありがちな、やましい妄想まで。

…しょうがないだろ、俺だってオスなんだ。

大人の先生に個人的に勉強を教えてもらって、何も感じないような朴念仁じゃない。

「良幸君、聞いてる?」

「はい、聞いてますよ」

だが、俺から先生に、その理由を聞いたことは無い。

『なんで俺に勉強を教えてくれるんですか?』なんて聞いたら、いかにも意識してますと言ってるようで、格好が悪すぎる。

それに、理由なんて別にどうだって良いのだ。

先生と二人の、この時間さえあれば。

「あ、そろそろ来るかな?」

その時だった。先生が時計を見て、そんな呟きを漏らしたのだ。

「なにがですか?」

俺が問い掛けたと同時に、図書室の扉が開く音がした。

「あ、来た」

先生の目が扉に向いたので、俺もつられて後ろを見る。

何か、高校には似つかわしくない、小さい影が入ってくるところだった…。

「ごめんね、良幸君。彼女にも、今日中に話しておきたいことがあったから」

それは、つかつかと俺の前まで歩いてくる。

そして、先生と俺に気づき、両者を驚いたように見比べた。

「む〜」

机の前まで来て、唸る。

「む…」

その瞳を、俺も睨みながら受け止めた。

どうやらこいつは、人の楽しみにしている時間まで奪いたいらしい。

「ええと、未久美ちゃんと良幸君はそんなに仲が悪い…の?」

困惑する先生をよそに、俺達のにらみ合いはしばらく続いた。


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