いもうとティーチャー☆
第七限:妹ヨビダシ
人間は新しい体験を積み重ねて成長していく。
青年期であるなら、尚更だ。
特異な経験は、それだけ大きく人を成長させるが、同時に自らの精神的外傷、つまりトラウマにもなりうる訳だ。
「妹に呼び出し食らうなんてのは、トラウマ以外の何物でもないよな…」
一生の傷になりそうな出来事を目前に控え、俺はため息を吐いた。
時間は昼休み、場所は職員室前。
「しかも、理由がセクハラ…」
あんな理由で呼び出された俺を、不審にも思わず、むしろ明るく送り出してくれた級友たちには、感謝して良いのか、それとも殴っても良いのか分からない。
「失礼します」
とにかく、扉の前で独り言を言っていても始まらない。
そのうえ不気味だ。
良いこと無しなので、俺は大人しく職員室に入った。
職員室の中は、いくつもの机に向かい、教員が飯を食ったり、談笑をしたりしている。
一通り見まわすが、そこに未久美の姿は無い。
あんにゃろう、人を呼び出しておいて、いないとは何事だ。
変なところだけ教師っぽくなりやがって。
「ふぁはほふん」
と、下からくぐもった声が聞こえた。
目線を下に。
ちょびん、としたものがそこにいた。
「小さっ」
思わず本音が出る。
「む〜!」
もちろんそこにいたのは、座っているのでイス+座高分の身長しかない未久美だった。
床についていない足を、プラプラと揺らしている。
手には半分に欠けたオニギリ。多分もう半分は、この膨れた頬に入っているのであろう。
今日はこいつの膨れ面ばかり見ている気がする。
「ふふは、はふぁのふ」
「…食べ終わってからでいいですよ、片野先生」
そのまましゃべろうとする未久美を制して、俺はこいつが食べ物を嚥下するのを待った。
小さな喉が分かりやすく動く。
で、その口元には、飯粒がついていた。
「口元、飯粒ついてます」
お約束に対する注意。
本人が気づいていないようなので、一応。
「んむ」
すると、無言で未久美は顎を俺のほうに向ける。
…多分、取ってくれのサインだ。
普段だって、こんなことされてもワザワザ取ってやるなんてことはしない。
口に入れてやるなんていう過剰サービスなんてもっての他だ。
しかも、ここは職員室。そんな世話焼き行為なんて出来るはずが無い。
同時に、俺の素の反応である『「甘えんな」で一蹴』も出来ないんだが。
「そのぐらい、自分でやってください」
「む〜」
この辺が限界だ。
まったく、ちゃんと教師の自覚あんのか、こいつ?
そんな俺の不満も知らず、自分が不満顔をしながら、未久美は自分の口元についた飯粒を取った。
「んで、用はなんですか?」
昼休みを無駄に潰すのも何だ。
俺は早速用件を聞いた。
しかし、未久美のほうは今思い出したかのように、首を傾げて考える。
そして、未久美は口を開いた。
「セクハラはやめてください」
それを聞いて、俺は思わず膝から崩れ落ちそうになる。
いや、予想はついていたんだ。
俺はそれを言われるために、ここに来たのだから。
だが、実の妹に先生として、きっぱりとそれを言われれば、情けないやらなんやらで、人生の無情さに号泣したくもなる。
「あ、あれは、別にそういう意味では無くて…」
必死で弁明しようともしたが、ここで実は本当にぺったんこか確めていましたなどとは言えない。
どうせ、妹に上の立場から叱られるという、悲しい出来事に遭遇する羽目になることは、目に見えている。
大体、妹と兄でなら、ただ妹の成長を確める何気ない行為でも、教師と生徒の間柄でなら、立派なセクハラだ。
本当に面倒臭いものだ、この関係も。
「まぁ、それは別にいいです」
て、良いんかい。
俺が本気でツッコミそうになると、続いて未久美は。
「お兄ちゃんなら…」
と、小声で続けた。
…これは、兄妹だから別にかまわないという意味だよな、多分。
顔が赤いような気がするとか、そう言う深読みは避けておこう。
「じゃぁ、何で呼び出したんすか?」
そうだ、さっき本気でトラウマになりかけた一言が、未久美にとってはどうでも良いことなら、俺は何のために昼休みを削られているか分からない。
「…片野君って、女の子の友達、多いんですか?」
そんな中、未久美の訳の分からない質問に、ふてくされたようなこの表情。
「はぁ?」
「だから! さっきみたいに女の子と楽しそうに喋ったり、あんなに顔を近づけたりするんですか!?」
…って、言うかそんなことで何故怒られなきゃならんのだ。
何で怒った? ちょっと考えてみよう。
つまり、じろじろ見るのは、良く分からんが「お兄ちゃんならOK」らしい。
で、女友達と話してるか質問しながら怒った。
じろじろ=怒ってない。
女友達と話す=怒る。
ああ、何だ。
「…焼きもちかよ」
整理するまでも無かったかもしれない。
「だって、片野君、私とは全然遊んでくれないのに、他の女の子とイチャイチャしてるんだもん」
言い当てると、未久美は少し、「む〜」と唸った後、そんなことを言った。
「イチャイチャなんてしてません。つーか、素で喋らないでください」
お前、そのセリフ、お兄ちゃんを片野君に変えただけだろ。
「むぅ〜〜〜〜…」
「教師がムームー言わないでください」
「む〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
さっきから、こいつのむくれ顔は収まらない。
ったく、俺にどうしろって言うんだ。
「じゃぁ、片野君は私以外の女の子と喋るの禁止」
「無理です」
それは、さすがに聞けなかった。
買い物とかどうするんだよ。
「先生命令です」
「んな時だけ教師ぶんな」
「先生には敬語を使ってください」
…仕返しらしい。
いや、俺はこんなガキじゃないから、別にむかついたりしないんだが。
「お話がそれだけなら、帰ります」
ともかく、付き合ってられないと判断した俺は、踵を返して帰ろうとした。
いいかげん、腹も限界だ。
ああ、グゥグゥなってる。飢え死にしたら、こいつのせいだ。
「むぅ」
がし。
…また、制服にシワが増えた。
背後から、未久美が俺の制服を掴んだからだ。
「…まだ、なんかあるんすか」
「家に帰ったら、いっぱい遊んでくれる?」
また、未久美はいつもの口調に戻っていた。
が、俺にはそれを注意することが出来ない。
振り向いた時の未久美の顔が、今にも泣き出しそうな顔だったからだ。
眉根が寄って、口がへの字になる。正直に言えば、間抜けな顔だ。
が、なんだか、俺が物凄く悪いことをしたような気持ちにさせる顔。
今日初めてされた表情ではない。
だが、俺は、だからこそかも知れない、この表情を浮かべた妹のほうへ向き直った。
周りを見まわす、どうやらこちらを見ている人間はいないようだ。
「…帰ったら、いくらでも遊んでやる」
兄として宣言。
が、まだ不満げな妹がそこにいた。
頭はかすかに垂れぎみ、上目遣い。何かを待っているように見えた。
…俺に、ここであれをやれってか。
俺はもう一度、今度は念入りに左右を確認してから、未久美の頭に手を乗せる。
なでなで。
そのまま、軽く登頂部の髪をすきながら撫でた。
気持ちよさそうな顔をしながら、満足げにそれを受け入れる妹。
「うん、約束ね」
眉間のシワも、頬の膨らみも、ちゃんと取れている。
妹があんな顔をするのは、初めてではない。だからこそ、俺はこんな時どうすれば良いのか知っていた。
俺達、兄妹の間でしか通用しない、一種の儀式のようなものだ。
こんなんで機嫌が直ってしまう妹もなんだが、妹の機嫌を取る手段として、こんなことをする俺は、相当の悪人だ。
一種の罪悪感が胸を過ぎり、職員室でこんなことしている羞恥心、あとは見つかるかもしれないと言う不安が、すぐさまぶり返してきた。
その手を急いで引っ込める。
すると、未久美は少し驚いた顔になり、また、不満の残滓のようなものを表情に出した。
「…いつもより早い」
備考、俺が撫でている時間は、いつも決まっているらしい。
儀礼的になっている証拠かもしれない。
「職員室ですから。自重してください、片野先生」
生徒モードに切り替える。
目の前にいるのは、妹ではなく、片野先生だ。
「…帰ったら、また、してくれる?」
が、未久美はまだ妹口調のまま、俺を見上げた。
思わず苦笑が漏れる。
「ええ、いくらでも」
俺は、そのまま職員室を出た。
…ったく、職員室で何をやってるんだか。
そう思いながらも、さっきよりも不機嫌ではない自分を、俺は感じていた。
「アレ」で気分が良くなったのは、未久美だけではないらしい。
「儀式じゃねぇのかよ、まったく…」
手をまじまじと見る。長いこと続けてきたあの儀式は、思いのほか効能が多かったらしい。
「けど、妹の頭を撫でて、気持ちよくなる俺って、もしかして変態なのでは…」
しかも、職員室でドキドキしながら。
それを思いついた途端、せっかく少し軽くなりかけていた心が、再び重くなったのは言うまでもなかった。
やっぱり、「いくらでも」は止めておこう…。