ドラポン 第三章 その10


 さて、妹の期待に応えねば兄ではない。十年以上裏切り続けてきた気もするが、それはそれである。
 家族が出かけた後、高鳴る鼓動を抑えながら、我は湖へとやってきた。
 周囲に誰もいないことを確認してから、ふぅっと息を吐く。
 まさか、この年になってから炎が吐けるようになるとは思わなかった。
 今までの特訓は決して無駄ではなかったのだ。大器が晩成してきた。といった按配であろう。
 きっとこれから我は、どんどんドラゴンらしくなるに違いない。
 とりあえず我は、現状の確認から始めることにした。
 己の心を落ち着かせ、息をゆっくり吸ってから、口をすぼめてふぅーっと吐く。
 するとどうだろう。いつもなら冷たいはずの息が、熱風とも言える温度になっているのである。
 はぁーっと吐いたわけでもないのにも関わらずである!
 何度かその温度を確認して悦に入った後、我はついにのど奥から思いっきり息を吐いた。
 すると、ポッ。という音がして、鼻先で火の粉が舞った! 
 鼻が邪魔できちんと確認できなかったが、我の口から火が出ていることは疑いようがない! 
 なんという事か! 我は正に、進化の最先端を走っているわけである!
 ……失礼、少々興奮し過ぎたかもしれない。
 それから、我は一時間ほど火を吹く練習をした。
 しかしアグノのように火柱を立てるようなブレスは中々吐けない。
 火の粉、もしくは小銭程度の火がシャボンのように宙に舞った程度である。
「ううむむ……」
 焦ってもしょうがないことは、分かっている。
 だが、我は早くドラゴンになりたいのだ。
 そうだ。ドラゴンに変化すればより炎が出やすくなるかもしれない。
 思いついた我は、なるべく雄大なドラゴンの姿を思い描き、えいやっと湖に飛び込んだ。
「シギャーーーーース!」
 湖面が光り、その中から漆黒のうろこを持つ竜が顔を出し、咆哮を上げる。
 その竜こと我は、そのまま水中から飛び上がる! ことはできないので、平泳ぎですぃーと岸辺に上がり、練習を再開せんと息を整えた。
 さて、もう一度ブレスを吐こうと息を吸おうとすると。
「ん?」
 森の奥から何者かがゆっくりと歩いてきた。
 全身を真っ黒い鎧で包んだ、季節感ゼロの男である。顔までフルフェイスの兜で覆っており、草を摘みにきたわけではなさそうだ。
 一瞬、毎度おなじみのあのツンツン冒険者かとも思ったが、あの男にこんな高そうな鎧が買える訳が無い。
 それにあのツンツン頭で兜など被れる訳もないので別人だろう。
 男は、臆する様子も無くこちらへまっすぐと向かってくる。
 今の我は、外見だけはまごうことなきドラゴンだ。それに向かってくると言うことは……。
 我は自らがなるべく威厳あるドラゴンに見えるように佇まいを直すと、男に語りかけた。
「人間よ。何をしにこの地を訪れた」
 枯れているせいで、思いの他貫禄のある声になった気がする。
 我の声を受けると、男は足を止め、自らの兜に手をかけた。
「私は人間ではない」
 そう言いながら、男が兜をはずす。その下には頭が……無い。
 一瞬びくりと体が震えたが、相手の身体的特徴を怖がっては失礼である。
「あぁ、これは失礼」
 我は落ち着きを取り戻して、彼に謝罪した。
 ドラゴンたるもの、この程度では動じないのだ。
「我が名は暗黒騎士ガッデオ。魔王様に仕えるデュラハンである」
 男が小脇に抱えた兜のひさしを開ける。
 すると、その下から人間の顔が現れ、更にはその生首の口が動いて、言葉をつむいだ。
 我が我慢できずに一歩引いてしまったとしても、これならば許されると思う。
 男は我の気持ちを知ってか知らずか首を元の位置に戻すと。
「貴様がヴォルガー・ザ・ドラゴンの息子だな」
 そう問いかけてきた。その名前が出、我は一瞬体を硬直させる。
 魔王関連で父上の名前が出るということは、おそらく碌な事がない。
 しかし父上の名前が出ているということはしらばっくれても無駄だろう。 
「ええと、父のお知り合いですか?」
 まぁいきなり殺されたりはすまい。そう判断し、我は頷きながら男に問い返した。
 すると――。
「貴様には死んでもらう!」
 暗黒騎士ガッデオはいきなり剣を抜くと、我に斬りかかってきた。
「え、ちょ、ちょちょっとぉ!?」
 必死でそれを避ける我。本当にいきなり殺しにかかってくるとは!
「何故我を狙うのです!」
「しらばっくれるな! 貴様の父が魔王様とした約束を知らんとは言わせんぞ!」
「……知りませんな」
 父上は魔王のところへ性交渉をしに行って、そのまま死んでしまったのだ。遺言の類は一切ない。
 我が答えると、暗黒騎士は予想外だったのか一瞬たじろいだようだった。
 だが、軽く頭を振ると、やがて遠くを見て語りだした。
「あれは魔王様と貴様の父の戦いも終盤、貴様の父は既に死にかけであったが、魔王様の魔力も底を尽きかけ、世界の存続が危ぶまれた時だ」
 魔王の魔力が消えれば森も消え、同時に魔物も一部を残して消え去る。
 何と父上は世界を滅ぼしかけていたらしい。
 彼の息子であり、この地に生きとし生けるものでもある我としては、とても複雑な気分である。
 しかし男はその辺りはどうでも良いと言いたげに話を進めた。
「悪くすれば相打ち。そんな状況で、貴様の父は魔王様の事は諦めるからと条件をつけ、卑劣な約束をとりつけさせたのだ!」
「ほう……」
 勝手に押しかけておいて、引くから言うことを聞いてくれなどとは滅茶苦茶にもほどがある。
 あると思うのだが、それが我が父、ヴォルガー・ザ・ドラゴンという生き物だからしょうがない。
 まぁ、それで納得できるのは身内だけだろうが。
 暗黒騎士ガッデオのほうも憤懣やるかたないといった様子で、我へと怒りをぶつけた。
「そしてその約束とは、生まれたばかりの魔王様の娘……彼女と、自分の息子と結婚させろというものだった!」
 しかし、ぶつけられた彼の言葉を我が理解するには、少し、時間がかかった。
 生まれたばかりの魔王の娘。魔王は既婚者だったのか。父は産後の人妻に関係を迫りに行ったのか。
 それはまぁ良い。死んだ者を責めることは出来ない。
 それよりも、問題は後半である。
 結婚? 自分の息子と? 自分の、父上の息子というのは、つまり……。
「我、ですか」
「貴様以外に息子がいないとなればそうなるだろう!」
 遅まきながらその認識にたどり着き、我が前足で自らを指差すと、男もまた待ちかねていたように我をびしりと指差した。
 この状況になると残念ながらと言わざるをえないが、双方にとって残念ながらヴォルガー・ザ・ドラゴンの息子は我以外にいない。
 あくまでも我が知っている限りでは、だが。
 暗黒騎士ガッデオは、コホンと咳払いをすると、話を続ける。
「世界の存続を第一に考えた魔王様はそれを了承した。その瞬間、ヴォルガー・ザ・ドラゴンは満足そうに死に伏したという」
 ……思わぬところで父上の死に様を知ってしまった。
 父上らしいような、彼にしては穏便なような。少し感傷に浸りたいのだが、目の前の男がそうはさせてくれない。
「そして今年、自らの魔力の衰えを感じ、引退を決めた時、魔王様はその約束を律儀に果たさんとしたのだ」
「本当に律儀ですな……」
 我が父などドラゴン族から放逐された身であり、何の権力も持っていない。
 なのだから、そんな約束反故にしても構わないだろうに。
 しかも御方は魔王である。約束など破っても「さすが魔王様かっこいー」ぐらいは言われても非難などされようが無いと思うのだが。
「そしてその一人娘! 我が麗しの姫様は見知らぬ男と結婚させらられることを嘆き、城を飛び出してしまった!」
「はぁ、それはお気の毒に」
「誰のせいだと思っている!?」
 少なくとも我ではあるまい? そうは思ったが男は我の話を聞きそうにないので黙っておく。
 ……魔王の娘、か。まぁ先ほどの顛末を聞いて、そんな無茶苦茶な約束を取り付けるドラゴンの息子と結婚したいと思う女子はおるまい。
 そういう点では、その魔王の娘とやらも一般的な感覚を持っているようだ。
 だがしかし、相手の顔も見ずに城を飛び出すというのは如何なものであろう。
 王族としての務めとか、そういった難しいことは我にも分からぬ。
 だがここに、普段はキンタマの重みで価値を計られている、一匹のたぬき……ドラゴン男子がいるのだ。
 今はちょっとたぬきフェイスなので、対面しても逃げられる可能性は高いが。
 しかし、そんな我の感傷を麗しの暗黒騎士に推し量れるはずもない。
「私は姫の心を救うため、貴様を迎えに来るであろう魔王軍より先回りして、貴様を殺しに来たのだ!」
 というか、何やらこのお方は魔王の意向を無視してまで、我に対しそのような物騒な事をしにきたらしい。
「あぁ、姫様見ていてください……このガッデオ、必ずや邪悪なる竜を打ち倒し、貴方を救い出して見せます」
 ……そして、我を邪悪などと罵る、自らの称号も忘れた感じの暗黒騎士ガッデオの言いざまで、我は遅まきながらに理解した。
 なるほどこやつはその姫様とやらに懸想している訳だ。
 そしてその得点稼ぎに我を剣の錆にしようとしていると。
「あのぅ、そういうの迷惑なので帰ってくださいませんか? 我にも選ぶ権利というものがありますし」
 得点稼ぎで殺されてはかなわない。我はなるべく穏やかに男に提案する。
「姫様を無辜にするなど貴様何様のつもりだ!」
 が、その言葉は男の気持ちに油をそそいでカラッと揚げてしまったようだ。
 暗黒騎士が猛って剣を構えなおす。
 受けてもダメ。断ってもダメ。どうしろというのだ我に。
 こうなると選択肢は二つである。一つ目はたぬきの姿に戻って「実はぼくドラゴンじゃないんですアハハ」と言って逃げる作戦。
 これはあのツンツン頭の冒険者にやったが、あえなく捕まって鍋にされかけた。
 この男なら即座に切り捨てるぐらいの事はするだろう。
 それに、あの作戦はアグノに大変評判が悪かった。
 竜のプライド。今までは実感が薄かったが、我ももう炎を吐けるようになった立派な……いや、ドラゴンの入り口に立ったドラゴン見習いなのである。
 こんな色恋狂いの暗黒騎士にヘコヘコするのはアグノだけでなく死んだ父や自分自身にも申し訳がない。
 よって選択肢は自動的にその二、こやつに一発かましてからその隙に撤退が選ばれた。
 とりあえずそのぐらいしておけば、我も気が済むし竜の威信も損なわれずに済むはずだ。
 こやつに完勝して余裕の凱旋というセンもあるにはあるが、我のドラゴンとしての血がいきなり超覚醒でもせぬかぎり勝ち目は薄いだろう。
 よって、とにかく今は精神的な勝ちを頂いただく!
「ガァーー!」
 そう決めた我は、息を吸い、男へと炎を吹きかけんとした。
 ボゥッ! この姿に変身したのが良かったのか。それとも暗黒騎士という響きその物に苛立ち始めていたのが良かったのか。今日一番の大きな炎が出る。
 それでも大きさは焼きおにぎり程度の大きさ。男には届かず、目くらましにしかならない。
 いや、しかしそれで充分だ。我は更に身を翻すと、ドラゴンの尻尾を男の足下へと振り回した。
 だが、さすがは暗黒騎士などと名乗っているだけはある。
 火は目くらましにもならなかったようで、男はその尻尾に対し剣を振り落とし、足下に来た尻尾を両断しようとしてきた。
 だがそこで、我も尻尾の根元から変化。地を這わせていた尻尾を上向きの物にし、その先端をたぬき――巨大マペットのポンくんへと一瞬で変化させ、自らの意識をそちらに移した。
 振りの勢いはそのまま、男の剣をかわした我は、そのまま暗黒騎士の兜にポンくんの手を伸ばす。
 それを奪い取って湖の中にでも捨ててやろうとしたその時、男の剣が素早く伸び上がり、再び我の尻尾を斬り上げに来た。
 我は慌てて変化を解き、たぬきの姿に戻ってそれをかわす。
 こういう咄嗟の時は、変化を解除した方が早い!
 変化解除の基点はドラゴンの尻尾、つまりはマペットのポンくん。
 ブサイクだったマペット人形が、一瞬にして美たぬきになりかわる。
 我は当初の予定通り、デュラハン男の頭をもごうと前足を伸ばした!
「チッ!」
 男の舌打ち。それとほぼ同時に、我の脳がごぉんと周りの音をすべて無にするような響きを伴って揺れる。
 男が振り下ろした剣をそのまま横へ振り、その腹を我の体に叩きつけたのだ。
 まるで新しいスポーツでも使えそうなスイングで吹き飛ばされた我は、湖へとつっ込んだ。
 目の前が白と黒で激しく明滅する。 
 黒い闇に引きずり込まれそうな意識を必死で繋ぎとめた我は、無我夢中で水の中から顔を出すと、溺れるように泳ぎ岸へしがみつく。
 水中から這い出ても息が苦しいのは、鼻の奥から止め処なく流れる鼻血のせいだった。 
 痛い。苦しい。その二語が、頭の中を埋め尽くす。
「何やら獣臭いと思えば、たぬきとはな。どういうことだ?」
 男が我を冷たく見下ろしながら問いかけてくる。
 反射的な恐怖で身がすくみそうになったが、我は口の中の血を吐くと、めいいっぱい強がって男に答えた。
「随分と、鼻がよろしいことで……。我が名は、ポン太郎・ザ・ドラゴン。たぬきとドラゴンのハーフでっ……!」
 言い終える前に、我の体が湖から引っ張り上げられ、今度は反対側に蹴られる。
 幾度となく天地が逆転し、車輪のような勢いで地面を転がった我は、木の幹にぶつかりようやく動きを止めた。
「まさかヴォルガー・ザ・ドラゴンの息子がこんな畜生とはな! あの男、ペテンにもほどがある!」
 お前が約束したわけでもあるまいに。回る視界の中で我は悪態をついた。
 まさか我の変化よりも早い動きをするとは……。アホな事ばかり言っているから、見誤ったではないか。
「この侮辱、ただ殺すだけでは飽きたらん!」
 我の存在自体を、侮辱扱いしおって……。我は平和主義者であるから、そんなに酷いことはせぬが、くそう、後悔させてやる。
「いや、貴様だけでは終わらせん! 貴様を始末した後一族郎党根絶やしにしてくれる!」
 男の声が、遠くなりかける意識の中でゆわんゆわんと反響して聞こえる。
 姉上たちが、こんな暴走特急にやられるとは思えない。
 だがしかし、こやつには絶対に我が一発かましてやらないと気がすまない。
 何故なら我は、ヴォルガー・ザ・ドラゴンの息子なのだ。
 家族を害すると言われて、黙っているわけにはいかない。
 我は、ドラゴンなのだから。
 そう念仏のように唱え、前足に力を込め、我は立ち上がろうとした。
 だが、その時――。
「ま、待っておくれ!」
 唐突に声が響いた。その方向へと顔を向けると、なんと我が母、桂たま美がこちらへ向かって走ってきているではないか。
「は、母上!?」
 今こちらに来ては危ない! 我は彼女を制止しようとした。
 だが、それまで全神経を目の前の憎い男に向けていた為にバランスが崩れ、前肢が折れてしまう。
 そんな我に、母が上から覆いかぶさった。そうして彼女は、鼻を鳴らしながら我の様子を確かめる。
 暖かい水滴が、我の顔に落ちた。
「な、何故、ここへ……」
「アグノの様子がおかしいから問い詰めたら、アンタが火を吐いたって言うから慌てて来たんだよ」
 アグノめ。口が軽いにもほどがある。というよりも、どうせ秘密を抱えたというプレッシャーに耐え切れずそわそわしていたのだろう。
 我が妹は、やたらプレッシャーに弱い所がある。
 その様を想像して、我は笑おうとした。
「アンタが火を吐くなんて、そんな訳、あるはずないのに」
 だが、続く母上の言葉で、我は凍りつく。
 まったく、母上は息子の可能性をまるで信じていないのか。酷い母親だ。そうやって抗議しようとした。
 だが、母上の口調はひどく断定的で、搾り出すようで、決まりきっている事実を話すような、おかしな響きがある。
 そうして、しばらくの沈黙。その後、母は男に涙声で訴えた。
 それを聞いてはいけない。本能が、我の本能がそう叫んではいたが、耳をふさぐことは叶わない。
「この子は、竜の……ヴォルガー・ザ・ドラゴンの子供ではないんです」
 母上が紡いだのは、意味が分からない、言葉だった。
「母、上……?」
 ――きぃんと、耳鳴りがする。意識が沈まないように苦労しながら、我は母上を見上げた。
「……どういうことだ」
「事情があって、あの人の子供ということにしていただきましたが、血の繋がりはないんです!」
 母上が、泣いている。あの、ふてぶてしい母上が。
 違う、そうではない。そこではない。彼女は、今、おかしな事を言った。
 血が、繋がっていない? 我が、父と? 
 いやいやそんな馬鹿な。なら、あの炎は何だというのだ。
 我が昨日吐いたあの炎は……。
『アンタが火を吹くなんて、あるはずない』
 先ほどの母上の言葉が、脳内で再び再生される。
 混乱した我がもう一度力を込め、立ち上がろうとすると、母上がそれに気づいて体をどけた。
「ごほっ、ごほ、ぐぼっ!」
 その刹那、急に喉が苦しくなり、我はえづいた。すると我の喉奥からごとり、何かが転がり出る。
 涙目で我がそれを確認すると、それは真っ赤に透き通った石で、熱を持っているのかゆらゆらと湯気を発していた。
「なるほど、似炎石を飲み込んでいたか。たぬきらしい姑息な手だ」
 見下したような男の声。滲む視界のまま、我は問いかけた。
「似炎、石……?」
「魔王様の魔力の衰えが原因で、炎の魔力が宿った石の事だ。知らなかったのか?」
 ――姉上と水浴びに行った時、彼女は言った。小ハゲ広場は、魔王の魔力がが行き届かないせいであぁなっていると。
 魔王の魔力が不安定なせいで、森におかしな物が増えていると。
 ウネ姐さんは、魔王の魔力が不自然に集中して誕生したという。
 我が火を吐いたのは、吐いたと思っていたのは、つまり。
 唖然としたまま、我は透き通った石に映った、自分の顔を見る。
 ……たぬきだ。どう見ても。見間違えようもなく。
「わあっはっはっはっは! 気が変った。見逃してやる。惨めなたぬきとして一生穴倉で生きるがいい」
 男が我を見下ろし笑う。
 耳障りなその音が、我の頭をくわんくわんと揺らす。
 ダメだ、ダメだ。こんな所に居ては我はおかしくなってしまう。我は、我は……。
「わあああああああああ!!」
「ぽ、ポン太郎!」
 気づけば、我は叫び声を上げ、足を引きずりながらその場から逃げ出していた。
 背後で母の制止と男の笑い声が響くが、我は足を止めることはできなかった。


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