ドラポン 第二章 その7


「母上! いい加減にしてください!」
 野生に戻った叫び声をあげながら、我は柱の影に隠れた。
「アンタが自分で塗るのが嫌だっていうから、アタシが代わりにやってやろうって言ってるんだろ! 大人しくしな!」
 その我に対し、がに股の臨戦態勢でにじり寄る母上。
 彼女の手には赤と紫がマーブル模様を描く、いと禍々しき色の軟膏が握られていた。
「だから我は、そんな怪しげな薬を自分の局部に塗るつもりなどありません! しかもそれを母親に塗られるなんて死んでも嫌です!」
「危なくなんてないって言ってんだろ! これはちょいと塗るだけでキンタマが数倍に腫れるって妙薬だよ!」
「今腫れるって言いましたよね母上!? くっ、こんな家にいられるか!」
「あ、ちょっと待ちな!」
 どう考えても劇薬である。
 我は息子を辱めた上殺そうとする鬼畜母から自らを守る為、縁側からエイヤっと飛び立つ。
 そしてそのまま全力疾走して、森の中へ消えた。その後の我の消息は誰も知らない。


 それから三時間ほどして、我は懐かしき我が家へと戻ってきた。
 そろそろ母上は仕事に行っている時間である。流石に息子の息子に怪しげな薬を塗る為に、仕事をサボタージュしてはおるまい。
 そう思いながらも我がそぉっと近づくと、縁側に人影があった。
 着物姿の、美しい黒髪の乙女。膝の上で揃えた白い手が、我をどきっとさせる。
 あれは我が姉様、ミュッケ・ザ・ドラゴンに相違ない。
 変化した母上では? と疑いもしたが、あの麗美なオーラは局部の名前ばかり連呼しているような母親に出せるはずが無いし。
「姉様!」
 自らの中でそう確信した我は、姉様に向けて駆け出した。
 あの母の所業を姉様に聞いてもらうのだ。
「よくも逃げたわねポン太郎」
「うっひゃぁ!」
 しかしその途端、彼女の喉からしわがれた声が響き、我はつま先でくるりと回転し、再び逃げ出そうとする。
「ってお母さまの伝言だよ」
 そろそろと振り返ると、姉様はいつもの笑顔でニコニコとしている。この素敵な笑顔はさすがにあんな妖怪キンタマババアに出せるものではない、多分。
「た、たぬきはびっくりすると気絶するのですよ。我が半分ドラゴンでなかったら危ないところでした」
 たぬき寝入りの由来である。姉様に抗議しつつ、我は水桶で足を洗った。
「ごめんね。なるべく忠実に伝えてってお母さまが言うから」
 手を合わせ軽く謝る姉様。
 そして彼女は、自らのふとももをぽふぽふと叩いた。
 我も子供ではないのだし、そんなので誤魔化されないんだからね! みたいな空気を出しつつ、我はゆっくりと縁側に乗る。
 そしていそいそと足を拭き、そのやわらかなふとももの上に乗った。
「ふふっ、大変だったみたいだね」
 姉様が微笑んでいるのは、くすぐったいからに違いない。そう思いながら我は顎を下ろすと、彼女に答えた。
「最近の母上は少々おかしいです。人のキン……局部の大きさを過剰に気にしたり、勝手に見合いを組んだりして」
 ついこの間もよく知らないたぬきと見合いをさせられたばかりである。しかも相手は母より年上の、ずいぶんな姉さん女房であった。
「んー、お母さんなりに心配なんだよ。ポンちゃんの将来が」
「それにしても安く見積もられ過ぎではないでしょうか」
 我は腐りかけの処分品か。余程嫁の来手が無いと思われているようである。
 姉様は慰めるように背中を撫でてくれるが、段々と不安になってくる。
「……母上から見ると、我はそんなに頼りない息子なのでしょうか」
 半分はドラゴンの血が入っているくせに、まるでドラゴンの特徴が表れない我。
 その成長を、母はひどく落胆しながら見守っていたのではないだろうか。
 嫁の宛てもないまま人間や魔物や動物とフラフラと遊ぶ我は、母にとって良き息子では無いのではなかろうか。
 自分で言っていて良き息子の要素がまるで無いことに気づき、我はしょんぼりとした。
「そんなこと無いよ。ポンちゃんはちゃんとこの家を守ってるし、お母さんの自慢の息子だよ」
「……守っていますか?」
 姉上にもそう言われたが、我としてはやはりこの家を、家族を守っているという自覚はない。
 寝ている間に内なる我が目覚めてすばらしいディフェンスを見せているのかもしれないが、そんな痛々しい者がいるのであれば睡眠時間を返せと訴えたいぐらいだ。
「ええ、だからこのキンタマが大きくなる薬を塗りなさーい」
「痛いのは嫌です」
 母上の真似をする姉様をあしらって、我は身じろぎをして丸くなった。姉様が言った卑猥な四文字に、座り心地が悪くなったという理由もある。
「でも、ポンちゃんとお母さんには仲良くして欲しいな。わたしの最初のお母さんは、どこかへ行っちゃったからね」
「姉様……」
 我が見上げると、彼女は自虐的な笑みを浮かべていた。
 姉様はこの世に生を受けたとき、ドラキュラではなかった。人間……いや、ドラキュラの子供、クルースニクという存在だったらしい(ドラゴンとドラキュラの娘をそう呼ぶかはまた不確からしいが)。
 ドラキュラの自分に子供ができたことを、かのドラキュラ母上はまことに喜び、彼女を存分に愛した。もっと言えば、愛しすぎた。
 姉様を抱いて乳を上げている時、彼女が愛おしくて愛おしくてたまらなくなった彼女の母上は、赤ん坊だった姉様をつい……噛んでしまったのだ。
「ドラキュラはね。好きな相手ほど噛みたくなるの。でも恨んでないよ。それは吸血鬼の本能だもの。本能は、抑えきれないものだから」
 それはおそらく、独占欲、そして保護欲の表れであった。相手が好きだからこそ噛んでしまう。そんなハリネズミのジレンマが、吸血鬼には存在したのだ。
 そして、我が子も吸血鬼にしてしまった罪の重さに耐えかね、姉様の一番目の母上は姿を消してしまった。
「だから、それからわたしを預かって育ててくれたお母さまには感謝してる」
 母上は、様々な事情があって母親が不在になった子供の面倒を、まとめて見ていた。今は大分少なくなったが、父上が存命の頃は十以上の姉達が母によって育てられていたように思う。
「血が繋がっていなくても、たま美お母さまの事を本当のお母さまだと思ってる」
「そう、ですか」
 なんだかむずがゆくなって、我はその身を揺らした。
 母上が立派なのは、我も理解はしているつもりだ。しかし彼女との最新の想い出は我の局部に怪しげな薬を塗りこもうとした映像であり、姉様の言葉を素直に受け取るにはそれが衝撃映像過ぎた。
 ……第一、恥ずかしいではないか。
「最近、力が強くなってきてるの」
 我が毛皮の下で顔を赤くしていると、姉様はぽつりと呟いた。
「あぁ、復活も随分早くなりましたね。喜ばしいことではないですか」
 確かに最近の姉様の復活速度はとても早い。夕方に灰になっても晩飯に間に合うほどだ。とても良いことだと思うのだが、彼女の声は暗く沈んでいる。 
「でも、そのおかげでたまにね。こうやって撫でていると……したくなっちゃうの」
 姉様の発言に、我はびくりとなって体を持ち上げた。まさかそんな大胆な。僕たち腹違いとは言え姉弟で……。などと慌てながら姉様を見ると、彼女は犬歯にある牙をむき出しにして笑っていた。
「ポンちゃんを、わたしみたいな吸血鬼に」
 その言葉にほっと胸を撫で下ろす我。良かった。インモラルな意味ではなくて。
 いや、ちょっと待て、良いのか? 我が首を捻っている間に、姉様は話を続ける。
「これは多分、吸血鬼の本能なんだと思う。でも、普段も考えるときがあるの」
 何が? と我が再度姉様を見上げると、姉様はどこか遠いところを見ながら語りだした。
「きっと、皆はわたしより先に死んじゃうんだろうなって。そう思うと、すごく寂しくなって」
 姉様の言葉に、我もまたふっと考える。我は、一体いつまで生きるのだろう。ドラゴンの寿命は、数百年とも、千年を越えるとも言われている。 たぬきの寿命はおよそ百年。
 ではドラゴンとの合いの子である我はいくつまで生きるのだろう。しかしいくら長く生きられたとて、不死である姉様よりは短いことは確かだ。
「沢山のお姉さま達や、お父さま。もう、家族と離れ離れになるのは嫌なの」
 彼女と同じほうを向き、我は遠くの山に父や他の姉達との思い出を見る。
 あの賑やかで何が起こっているのか分からないような生活は、めちゃくちゃであったが楽しかった。
 そして今の穏やかな生活。これも、我にとってもかけがえのないものである。この方々と離れて暮らす生活など、我には恐ろしくて想像も出来ない。
 きゅぅきゅうと、我はまるで赤子のような声を上げてしまった。我の頭を二三度撫でてから、姉様は呟いた。
「だから、ポンちゃんの事を噛んでもいい?」
 目を合わせた姉様の表情はとても寂しげで、口元は笑みの形を浮かべているのに泣いているようだった。
 恥ずかしい鳴き声を上げてしまった事を後悔した後、我は姉様の問いかけに、しばし考え込む。ドラゴンとドラキュラが半分な姉様はともかく、我が吸血鬼になると、恐らく太陽には人並み……もとい普通のドラキュラ並みには弱くなるだろう。
 そうなると仕事は夜間にまわしてもらわねばならない。あるいはきつね亭で夜の看板娘を担うのも良かろう。
 後は……姉様に絶対服従になってしまうことが問題か。まぁ我は彼女の言うことは大抵聞くし、姉様は優しいから無茶なお願いはすまい。後は、姉上の言った長過ぎる寿命の問題か。
「良いですよ」
 熟考の末、我は姉様にそう答えた。長い長い時間は、きっと我を色んなものが蝕み、我を我のままには居させてくれぬだろう。それは我でも分かる。
 しかし、その長い長い時間姉様がこんなに寂しい顔をして過ごすことを考えたら、そうとしか答えられなかった。
 姉様が頭を垂れ、我の顔を覗き込み、「本当に?」と口の中で呟く。それを見て、そうだ大切なことを忘れていたと我は思い出した。なので姉様に一つ条件をつける事にする。
「ただし」
「うん?」
「痛くしないでください」
 我が真剣な顔でそう頼むと、姉様が弾かれたように首を上げる。彼女の白いおとがいに我がドギマギしていると、彼女は口元を押さえて笑い出した。
 そのまま体を折りたたむので、我は非常に窮屈な思いをする。
 ……そんなにおかしな事を言ったかしらん。
 不服に思って我が体を揺すると、ひとしきり笑った後、姉様は我の背中をごめんごめんと撫でてから、下唇にちょこんと乗る牙を見せながら言った。
「わかった。その時は……優しくするから」
 彼女の笑顔を見て、我は自分が大人の階段を一つ登ったことを、確信した。

次へ    戻る   INDEXへ   TOPへ