ドラポン 第二章 その6


 イネヤ湖は、直径二百メートルほどの湖である。
 水は鏡の代わりにできるほど美しい。
 その美しさは水のほとりに住む毒ゲンゴロウ達のおかげであり、彼らは水中にある汚れを自らに溜め込むことで毒々妖精として羽化し、わが身と湖の水質を守っているのだ。
 月が水鏡に浮かぶその湖の手前で、姉上が我をそっと降ろす。
 そして湖に歩を進めた彼女は、それと共に衣服を脱ぎ捨てていった。
 月明かりに浮かぶ肌に目を奪われそうになった我だったが、いかんいかんと慌てて視線を逸らす。だが、そんな我に――。
「ポン太。見て」
 姉上は、優しく声をかけた。その柔らかな声に導かれ、我はもしかしたら振り向いた途端キックが待っているかもなどとも考えず、つい彼女の方を見てしまった。
「私は自分が嫌い。この体も、この奥の本当の姿も。でもそれから、目を逸らしたりしないわ」
 湖に足を浸した姉上の体は、月光を反射し、水の色を映し、青白く輝いている。
 湖より澄んだ青い瞳は我を見据え、そこには揺らぎも迷いも無い。ただ奥に唯一つ強い光があり、我はまるで深い深い海の中から引き上げられているような気持ちになった。
 陶然というよりは、その神秘的な美しさに唖然としていた我に微笑みかけ、姉上は背を向けるとゆっくりその身を湖に沈めていく、。
 そうして彼女の体が湖の中に沈み、水の波紋も消え、まるで一つの儀式が終わったかのような気持ちで我がぼんやりとそこを眺めていると。
 ぐぼぉん、と鼓膜を直接押さえられるような低い音が鳴った。それと共に、湖の中央に白くぼんやりとした光が灯る。そしてその周囲から、黒い影が広がっていった。
 影は湖に波紋を刻みながら細く突き出し枝分かれをし、まるで救いを求める無数の腕のよう。集ってはより大きな影となりまた枝分かれしていき、ついには湖全てを多い尽くした。
 それを境に、光を放つ場所を中心にして影が盛り上がっていく。水中から現れた黒い塊が我の視界から月を覆い隠し、白く光っていた光は、我の体より三倍は大きなぎょろりとした目だと我に認識させる。湖から押し出される水に体を濡らしながら、我の体毛はその意思と関係なくビビビと逆立った。
『コ……ワ……イ?』
 どこからか声がする。それは虫の羽音のような雑音を混ぜた不愉快な音で、我の頭の中を直接飛び回るように響く。
 その不快感に声を聞き逃しそうになった我は、急いで首を横に振った。
 目の前の物体はぼこぼこと湯だった墨のように蠢き、そこから気泡がはじけるような音をする度に、体の一部がヤギや、鳥や、ドラゴンや、様々な動物の形を取る。
 これが我が、姉様の本性。ドラゴンとその他の魔物、動物、虫までを無作為に混ぜた、ドラゴンキマイラであった。
『良い、のよ。正直に言……て』
 姉様の声が、いつものような調子に少しずつ戻っていく。それはまるで美しい悪魔のいざないのようであり、我は、つい彼女に漏らしてしまう。
「ちょ、ちょっとだけ、怖い、です……」
 我は、ひどい男である。薄情な森の生き物の仕打ちから少しでも姉上の心を離そうとついてきたのに、彼女が真の姿を現せば他のやつらのように彼女を怖がって、傷つけてしまう。
 ひどい偽善者である。
 我がこうべを垂れていると。姉上はそんな我に優しく語りかけた。
『怖がっても、良いの。それは自然なこと……なんだから。でも貴方は、私を怖がっても、それでも守ろうとしてくれた。私の心を』
「心、ですか?」
『ええ。この間、アグノを。庇ったときも、そうでしょう? あなたは、私達家族が、心のままに暮らせるように、守ろうとしてくれている』
「わ、我はただアグノが飛び回っているところや姉上が意地悪そうに笑っているところが好きなだけで、そんな大層なことをしたつもりは……」
『意地悪?』
「い、いえいえ笑顔が好きなので」
 我が慌てて否定すると、目の前の生物……姉上がふっと笑った気がした。
『堂々としていなさい、ポン太。誰に憚ることもないわ』
「で、でも我には誇れるような力が……」
『貴方が私達にそれを望むように、私も、貴方にそれを望んでいるから』
 言って、姉上は再び水の中へと沈んでいった。残された我は、かかった水滴をぶるぶると払うと、濡れて一回り小さくなった体で姉上の起こした波紋をじっと眺めた。


 やがて姉上が湖から上がってきた。そのちんまい姿にホッとしてしまうことに罪悪感を覚えながら、我は彼女が水際でこけたりしないように見守る。
「何時まで見てるの。すけべ」
 すると、そんな我の顔に姉上からタオルが投げつけられる。先程は自分が見ろと言ったくせにひどい理不尽ぶりである。
「あ、姉上の裸を見てもいやらしい気持ちになどなりません!」
 後ろを向きながら、我は姉上に抗弁する。姉上の体を見て綺麗だと思うことがあっても、それに対して欲情することはない。平坦だし。
「……ちょっとポン太。人間に変化なさい」
「は?」
「いいから早く」
「は、はい」
 姉上に言われ、我は訳の分からぬまま人間の姿に変化した。すると――。
「ていっ」
「あだぁっ!」
 太ももを後ろから思いっきり蹴りつけられた。な、なぜわざわざ変身させてから蹴りつけるのか。我が上半身を折り悶絶している間に、衣擦れの音が背中から響く。
「もう良いわよ」
 そうしてその痛みがようやく収束を見せた辺りで、背後の姉上から声がかかった。涙目の我が背後を振り返ると、服を着た彼女は両手を広げ我を待ち構えていた。
「姉上?」
「だっこ」
 その口調は完全に童女である。やれやれ、行きは自分が抱えたから帰りは我の番ということか。
 我が苦笑しながら屈むと、姉上は我の首に手を回した。我は尻を抱えて彼女を持ち上げる。すると、彼女は我の耳に顔を寄せ、囁いた。
「何かあっても大丈夫。貴方は、私が守ってあげる」
 びっくりして顔を離すと、姉上は少々赤い顔でいたずらっぽく微笑んでいた。
 こんな可愛らしい方に守っていただけるとは、我は幸せ者である。

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