ドラポン 第二章 その5


 数日経った夜のことである。我は四足歩行で厠から出てきた。
 たぬきの姿で人間用の厠を利用するのは少々骨が折れるが、その為に変化するというのもそれはそれで億劫であり、結局はたぬきの姿のままそれを済ましてきた。
 ここのところ少々寝つきが悪い。原因は前借りした金……ではなく、金を前借りした日に我が起こしたあの騒動であった。
 やはり気に入らないことに対して暴力で報復するのはよくない気がする。報復が報復を呼び、暴力が暴力を呼び、連鎖して後に待つのは無限地獄である。
 現にあの冒険者を妹が焦がしたことによって、あの男はドラゴン退治の意思を固めた様子であったし。それに……。
「矜持、なぁ」
 妹の言葉がずっと引っかかっている。我は別に、竜のプライドが傷つけられたからあのような行為に及んだ訳ではないのだ。
 アグノにそれを弁明しようか。しかしがっかりされるだけだろうな。などと考えていると、玄関の方でカタッと物音が鳴った。
 さほど大きい音でもなかったが、気になった我はそちらへ行ってみる。するとそこに、小さな影がうずくまっていた。
「姉上」
 顔は見えなかったが、背丈であたりをつけて声をかけると、彼女が振り向く。それはやはり我がいと小さき姉、ユマ姉上であった。
「ポン太郎。どうしたのこんな時間に」
「少々厠へ。姉上こそどこへ行くのですか?」
「水浴びよ」
 我が問い返すと、姉上はそう答えて立ち上がった。月明かりで青い影の射したその顔が、妙に寂しそうに見える。
 こんな時間にと考えた後で、事情を察した我は思わず口を開いていた。
「ご一緒してよろしいですか?」
「えっち」
「い、いや決してやましい気持ちではなく、我もちょうどそんな気分だったので!」
 我が必死で弁解しようとすると、姉上は我をちょいちょいと手招きした。
 我がおそるおそるそれに従って彼女の傍によると、彼女はやおら我を抱きかかえ、首筋に顔をうずめ匂いをかいだ。
「本当。少し匂うわね」
「面目ない」
 毛皮の下で赤面する我に、姉上が顔を離し笑いかける。
 月明かりが逆光となっていたが、夜目の利く我には対した弊害ではない。
 薄く微笑んだ彼女の顔は、童女のようでも姉のようでも聖女のようでもあった。
 しかし我がその貴重な笑顔をまぶたに焼き付ける前に、姉上は我をくるりと反転させると自分と同じ方向へ向けさせてしまう。
 そうして片手で玄関を開け、彼女はそのまま歩き出してしまった。
「あ、あの、姉上?」
「何?」
「その、重くはありませんか?」
 降ろしてくれ。とは何となく言い難く、我は姉上にそんな風に尋ねた。
「別に」
 しかし彼女は涼しい声でそう答え、我を抱えたまま森の中を歩いていく。
 「別に」の言い方がアグノにそっくりなのは、きゃつが真似しているからかそれとも血がなせる業なのだろうか。
 ともかく彼女にそう言われては、我にも特に降りる理由が見つからない。我より若干低い姉上の体温が心地よく、そもそも降りたいとも思わないなどとは微塵も考えていないが。
 しばらく歩くと(歩いているのは姉上だが)、我々は小ハゲ広場に出た。この間あのツンツンとした冒険者に、我が鍋にされかけた場所である。
「……相変わらずハゲておりますな。ハゲ広場は」
 そのまま町での騒動に思考が飛びそうになり、我はどうでも良いことを呟いた。
 小ハゲ広場は鬱蒼とした森の中に突如として現れたような、直径二十メートルほどの広場である。
 ちょろちょろとした雑草は生えているが、普通は三日もあれば生えてくる太い幹の樹は一向に現れる気配がない。
「アグノがここを燃やしたのは何時だったかしら」
「もう三年は前になるかと」
 すると我の言葉に反応し、姉上が足を止める。
 この広場でアグノが起こした騒動は、今でもよく覚えている。
 ある日森の中の洞窟に住むリザードマンに求婚されたアグノが、炎のブレスで森ごとそやつを墨にしかけたのだ。
 理由はそのリザードマンがアグノをトカゲの仲間扱いしたからで、アグノの怒りはすさまじく、危うくこの森全体が焼失するところだった。
 それ以来、この広場は樹木が再生せず、このような小ハゲ広場として苦い記憶と共に我々に親しまれている。
「しかし、何故樹が生えないのでしょうね」
「少し前から、魔王の体調が思わしくないという噂があるわ」
 首を捻った我に、姉上が答える。耳の中に息が入ってこそばゆい。我はピクピクと耳を動かした。
 ――森は魔王の魔力で維持されている。魔王が死ねば森は一時的に消え、魔物達の数も激減する。
 彼――彼女だったか、その力が落ちれば、このような場所も増えるということだろう。
「こういう場所とは別に、魔力が集中し過ぎて変異してしまった草や木も増えているらしいわ。拾い食いをしてはダメよ」
「姉上が美味しい料理を作り続けてくれれば問題ありません」
 我がそう返すと、姉上はなら大丈夫ねと呟いた。
 変異した草木というものを、我も確かに見た事がある。
 例えば森の奥にある喋る大樹、セミ宿爺さんがそうだ。彼は木でありながら意思を持ち、喋ることができる。
 しかし夏場はなぜか彼に大量のセミが集まり、そこで愛を大音量で語るため、最近では自らも老いらくの恋をしたいなどとおかしなことばかり言うようになった。
 その他にも夏なのに常に霜が降りている草、振るとカラカラと音がする石など、おかしな物がこの森に増えてきていることは確かだ。
「父上との闘いが原因でしょうか」
「十五年も前のことだからどうかしら。まぁかなりの激戦だったとは聞いたけれど」
 魔王ヴァトラスカと我が父、ヴォルガー・ザ・ドラゴンの戦いは、魔物の歴史書にも載っているほど激しい戦いであったらしい。
 もちろん反体制かつ動機が動機なので好意的な書かれ方はしていないだろうが。
「魔王が憎い?」
「いえ、その方を、その、父上の死の原因だと思ったことはないので……」
 当時の事は我も小さかったのでよく覚えていない。だが、父上の死は彼自身――もっと言うと父上の性癖が原因であると今は理解している。
 それ故、返り討ちにした魔王を責める気持ちは無い。むしろ正当防衛もいいところだ。
「森が無くなると我が家族も困りますので、できれば長く健やかに生きて欲しいものです」
 それどころか、彼女の健康を願う気持ちまであった。
 森が無くなれば、あのような場所に隠れ住むこともできなくなる。それにドラゴンの血が入った我らもどうなるか分からないからである。
 人間諸君には悪いが、今の状態がずっと続けば良いと我は思っていた。
「親不孝者ね」
「申し訳ない」
「でも、私も同じ気持ちよ」
 言うと、姉上は小ハゲ広場を横切ってまた歩き出した。
 木がざわざわと音を立て、その影がゆらゆらと揺れる。姉上の影は、それとはまた別の不規則な動きで蠢いていた。
 夜だというのにやけに静かである。人間や、仕事の関係上その生活サイクルを真似ている我らはともかく、魔物は夜行性の者が多いし、動物にもそういった者はたくさんいる。
 しかし我らの周囲からは虫の声さえ聞こえない。
 ――原因は分かっているし、だからこそ我も姉上についてきたのだが、こうもあからさまだと腹が立ってくる。
 我が内心で憤っていると、脇の茂みががさりと揺れ、そこから何かが現れた。
「おう、お前か」
 それは一匹の鹿であった。我はそいつに挨拶をしようとしたが、奴は我々の姿を見るなり慌ててきびすを返す。
「あ、コラ!」
 呼び止めた我だが、鹿は振り向くことなくぴょんぴょんと憎らしいぐらい軽やかな動きで森の奥へと消えていった。
「今のは鹿のシカ次郎です。ちょっと追いかけて叱ってまいります」
「良いから」
「しかし」
「良いからさりげなく駄じゃれを混ぜるのはやめなさい」
「シャレ?」
「……気づいてないなら良いわ」
 我が首を捻ると、姉上はなぜか疲れたようにため息を吐き、押し黙った。
 我も仕方なく、シカ次郎の追跡を諦めることにする。
 ――姉上は、森の生き物に避けられていた。
 こんなに小さくてかわいく、料理までできるお方だというのにである。
 彼女が恐れられる原因は、件の小ハゲ広場にあった。
 そこで起こったアグノの暴走。それを食い止めたのは姉上だった。姉上は身を挺してアグノから森を守り、そこで真の姿を晒した。
 ……それ以来、姉上は森の生き物から恐れられている。
 あれ、話のつながりがおかしくないか? と貴方がたは思うだろう。我もそう思う。
 しかしアレを見てしまえば仕方がない。と、森の奴らは語る。分かってたまるか。我は硬く硬く思っている。
「あれは貴方の友達なの?」
 我の強張った顔を知ってか知らずか、姉上が再び口を開いた。
「友達……と申しましょうか。たまに一緒にアホをやる仲です」
 ここで我が暗い気分になっても仕方がない。気持ちを切り替えて、我は姉上に答える。
 シカ次郎とはそれなりに古い付き合いで、少し前までは一緒に野山を駆け巡ったり、集まって猥談をしたりしていた。
 今は我には仕事ができ、奴にも念願の斑点の綺麗な彼女ができた為、中々前のようには遊べなくなったが……。
 今度奴に会ったら説教をかますか、ガールフレンドのシカ江さんに奴が我々とした猥談の一部を教えよう。我はそう決意した。
「あぁ、あのハゲ広場のリザードマンとも一緒に遊んでいたわね」
 そう、アグノが件の小ハゲ広場を作る原因となったアホなリザードマンも、不本意ながら我が知り合いである。
 というか「お前の妹、可愛いな」などと恐ろしいことを言う奴に、アグノを引き合わせたのも我である。
 アグノのブレスに何とか焼かれずに済んだ奴だったが、あれ以来妹の話はしないので、好みも羽の生えていないトカゲに変わったようだ。
「貴方には友達が多いのね。アグノも人間の町でたくさん会ったと言っていたわ」
 その言葉に我は首を上げるが、姉上の表情は伺えない。
 ミヤゼはよく話す店員というだけだし、フラミネくんは後輩。
 親方は親方なので友達とは言えないと思うのだが、人間界になじんでいないアグノでは判別が難しかったのかもしれない。
 まぁ、色々な種族に知り合いがいるのは確かだろう。
「父上がおっしゃっていましたから」
「父上が?」
「ええ、俺にかかればすべての女は姉妹だと」
 我がそう話すと、姉上はぴたりと足を止めた。
「その話、あまり吹聴しないように」
「どうしてですか?」
「すけべな話だからよ」
 姉上の話がよく分からず、我は首を捻った。姉上はどうやら我よりすけべいな話に関して博識なようである。
 ……しかしだ、父上の目的が姉上の言うとおりすけべだったとしてもである。
 半分は種族の違う我々が一緒に暮らしているということは、素晴らしいことだと我は考えるのだ。
 再び歩き出した姉上に、我は再び話しかけた。
「だから我も、父上の真似はできそうにありませんが自分なりに色々な種族と交流を持ってみようと思いまして」
「そう……」
 短い姉上の返事。しかしそこには乾燥したそっけなさではなく、憂いのようなものが含まれていた。
 我も何となく湿った気分になる。するとどうしても、例の事が頭を過ぎった。
 そうだ、こんな目標を抱えていながら我は……。
 頭を垂れると鼻先が姉上の腕に当たった。姉上がくすぐったそうに身をよじる。
「あ、申し訳ありません」
「どうしたの?」
 怪訝そうな顔をする姉上。少し悩んだ後、我は彼女に打ち明けてしまうことにした。
「アグノに買い物の話を聞いたのなら、その後の事についてもお聞き及びでしょうか」
「あぁ、ドラゴンを馬鹿にした人間を懲らしめたって話? アグノが貴方にもドラゴンのプライドがあったって喜んでいたわ」
 我が尋ねると、やはり聞いていたらしく、姉上はそう答えた。
 彼女が少し弾んだ声を出しているのが、我の心をまた苛む。
「プライド……我が男をあんな目に遭わせたのは、矜持の為などではないのです」
 しかし、何時までも嘘は言っていられない。我は勇気を出して、本当の事を言うことにした。
 すると、頭上で姉上のため息が聞こえる。
 あぁ、やはり落胆されたのかと我が怯えていると、姉上は我を抱える腕にきゅっと力を込めて言った。
「分かっているわ。家族を馬鹿にされたからでしょう」
 姉上には、我の考えなどお見通しであったらしい。複雑な気持ちで、我は頷いた。
「はい、我は、その、見知らぬ男にどう思われようが、構いませんし」
 我がそう答えると、姉上はこちらをちらりと一瞥してから、顔を前に向けなおす。
 軽蔑されただろうか。そう、我にドラゴンの矜持など、無い。
「アグノだって、貴方がそんな事で怒った訳じゃない事ぐらい分かっているわよ」
「そう、なのですか?」
 我が自虐的に口の端を歪めていると、姉上は不意にそんな事を言い出した。
「で、ですが、あやつは我にドラゴンの矜持はないのかと……!」
 慌てて見上げると、彼女はこんな事なんでもないという風に前を向いたまま呟く。
「アグノは素直じゃないから、そういう言い方しか出来ないだけ」
「ならばあやつは、何を怒ったり、嬉しがったりしているのですか?」
 我が尋ねると、姉上は説明しないとそんな事も分からないの? とでも言いたげにため息を吐いた。
「アグノが貴方を怒ったのは、ポン太がアグノの為に格好の悪いことをしたからよ」
「まぁその、ドラゴンらしくない醜態を晒したのは認めますが」
 それならやはり、アグノが怒ったのは我がドラゴンらしくないからではないか。どういうことかと我が考えていると、姉上は首を軽く振って、口を開いた。
「違うわ。貴方はアグノにとって、憧れのお兄ちゃんだからよ」
「はぁ!?」
 姉上があまりに素っ頓狂な事を言うので、我は鼻先を天に向け、裏返った声を出してしまった。
 それを気にもせず、姉上は表情を変えぬまま語り続ける。
「口ではいつもああ言っているけれどね。だから、そのお兄ちゃんが格好悪い所を晒すのが我慢できないの。それが自分の為になら特にね」
「そういうものですか……」
 姉上の言葉に、我は考え込んでしまった。アグノが我をそんな風に慕っていてくれたなど、我は思いもしなかったのだ。姉上の言葉でなければ到底信じられないところである。
 ……いやいや、本当か?
 首を捻る我に、姉上は「それに」と言葉を付け足した。
「ポン太は私達姉妹……いいえ、他の生き物にも優しくしようとして、我を通さない所があるから。……心配なのよ」
 言いながら、姉上は目を伏せて肩を落とした。まるで姉上自身が心配しているような様子である。
 なんだか申し訳ない気分になりながら、我は姉上に小さく異議を申し立てようとした。
「我はその、自分を押さえ込んでなど……」
「本当に?」
 そう言うと、姉上はじっと我を見つめる。我は思わず頭を垂れて、彼女の腕に顎を埋めた。
 少々首が疲れていたのだ。
 そんな我をどう思ったのか分からないが、姉上はしばし沈黙した後、吐息混じりに言った。
「貴方がアグノに堂々としたドラゴンであって欲しいように、アグノは貴方にも心のままに居て欲しいの」
 彼女の言葉に、我はぴくぴくと耳を動かす。
 アグノめ。姉上に、そんなことまで話したのか。
 確かに我は、アグノに自らの願望を押し付けてしまっている。だからあやつからも、我に求めるところがあっても叱るべきであろう。だが――。
「我には、力がありません。姉上達やアグノのような、立派な爪や牙もありませんし。こんな我が短気を起こしては、みんなに迷惑がかかります」
 今回の、武器屋の件とて、上手く行く保障はなかった。それに、あぁやってやっつけてしまった所為で、逆にあの男の心に火をつけてしまった可能性もある。
 自分の尻すら拭えないような我が好き勝手に暴れまわるなど、許されない行為だと、我は考えるのだ。
 姉上やアグノなら、あの男程度問題にはならないかもしれない。
 それでも、我は自分が原因で家族に迷惑がかかるのは、どうしても嫌だった。
「泉が見えたわ」
 姉上の言葉で、我は顔を上げた。
 するとそこには、月の明かりを受けて輝く大きな湖がある。
 毒妖精の撒く燐粉の輝きが目に染み、我はしぱしぱと瞬きをした。
 イネヤ湖。その雄大な湖は、我らを待っていたかのように、ゆったりとたゆたっていた。

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