ドラポン 第一章 その4


「ふぃーごちそうさまでした」
 夕食を終えた我は、背もたれに体を預ける。
 そして人間が腰紐を緩めるが如く、変身を解き、たぬきの姿に戻った。
 さすがにほぼ二人分も食べるとなると腹が苦しい。水風船のごとく膨れ上がった腹をさする。
「ぐぬぬ」
 アグノが恨みがましい目でこちらを見てくるが、それもまた幸福感のスパイスである。
 しかし我を睨んでいるのはアグノだけではなかった。
 獣の手で器用に食事を終えた母上が、黒ぶちの中の意外と鋭い目で我を睨んでいたのだ。
「な、なんですか母上」
 行儀の問題だろうか。そう考え我が姿勢を正そうとすると。
「ちょいとアンタ」
 なんと母上がテーブルに乗り、それどころかそのまま我の元へと食卓を横断してくるではないか。これでは行儀も何もあったものではない。
 唖然とする我の両肩を前足で固定すると、彼女はその視線を無遠慮に我の肢体に向けた。しかも重点的に見ているのは下半身である。
 我が全身の毛をビビビと総毛だたせていると、母がぼそりと口を開いた。
「……相変わらず、小さいキンタマだねぇ」
 我の頭が内外共に真っ白に染まっても、仕方のない台詞であったと思う。母親に自らの性器官の発育具合を指摘される屈辱、恥辱、やりきれなさは人間の諸君に伝わるだろうか。 
「アンタ、たぬきってのはキンタマの大きさだよ。ツラが多少難アリでも、キンタマさえ大きけりゃどうにでもなるんだから」
 我の受けた衝撃を鑑みず、母は早口でキンタマキンタマとまくし立て始めた。
 この母の元でグレなかった事と姉様に十字架が効くことが、我が多少なりとも神を信じている理由である。
「母上、それは前時代の考え方です」
 そんな品のない母上を、我は近代狸らしく静かに諭した。
 だが母上の勢いは止まらない。
「そんなこたないよ。近所のみっちゃんだってキンタマしか取り得のないような男と結婚したし、この間だって隣森の柊さんにアンタのお見合い写真持って行った時は好評だったけど、キン大を聞いたとたん断られたし」
「勝手なことをしないでください! というかキン大とはなんですか!?」
「男の良さは顔の良さ、甲斐性、キンタマの大きさの三Kで決まるんだよ」
「おかしいですたぬき社会!」
 我はついに椅子から転げ落ち、悲鳴混じりにそう叫んだ。
 たぬきのキンタマは、主に変身の為に使用すると言われている。こういった曖昧な言い方なのは、我がこの第二のお袋に頼ったことがないからだ。
 一部タヌキはこれを被ってより大きな物に変化するというが、おぞましいにもほどがある。
 そういった者は自らの未熟さをこのお袋さんに支えてもらっている、自立のできない甘えん坊である。きっと後ろ足で立つ時も玉袋で支えてもらっているに違いない。
 しかし我は違う。我は後ろ足で立ちながらしのび足で後退することもできるし、変化にこのような小汚い器官を使うこともない。
 こんな我の姿こそが一歩進んだ新時代のたぬきだと思うのだが、世間はこれについて来られないらしい。
 ……あるいは、我が普段体内にキンタマを収納しているような奥ゆかしい種族、ドラゴンの息子であるからこんなことを考えるのかもしれないが。
「というか母上、貴方だって普段は奥ゆかしいキンタマをしている父上と子を為したのではありませんか」
 キンタマへの考察中ふと気づき、我は体をいっぱいに伸ばすと何とかテーブルにしがみつき、母に抗議した。
「アタシはほら、うろこフェチだから」
 すると母は年甲斐もなく頬に両前足を当てると、いやいやとしなを作ってみせる。
「やぶへびとはこの事か」
 何故こんな形で母の性癖を知らねばならぬのか。せっかく食べた夕食が胃の中で腐りそうである。
「ともかく我は、このキンタマ至上主義のたぬき社会に徹底抗戦いたします。第一我の半分はドラゴンなのですから」
「アンタにドラゴンの嫁さんができるとは思わないけどねぇ」
 息子がせっかく胸を張り孤軍奮闘しようとしているというのに、我が母は呆れたようにため息をつく。
 孝行し甲斐のない母である。我が更に反論しようとテーブルに爪を立て、その上に登ろうとすると。
「食事が終ったからって、下品な単語を連呼しないで」
 姉上が我の首根っこを掴み、ひょいと持ち上げた。母上も同様につまみあげられており、その下のテーブルを姉上はふきんで拭いている。
 さて、では彼女がどうやって我々を持ち上げているかというと……その秘密は彼女の影にある。
 姉上の影。そこは屋内にあっても色濃くはっきりとしており、その中からはにょろにょろとしたものが這い出している。
 それをたどって母の首元を見ると、カギ爪のような形の物が彼女を掴んでいた。この前は吸盤つきの触手であったし、今我の首を掴んでいるぬるっとした物もまた別の形をしているのであろう。
 姉上の影は、姉上の真の姿の一部をそこから限定的に生やすことが出来る。つまりこのカギ爪もぬめっとしたものも触手も全てが姉上の一部なのである。限定された、ほんの一部である。
「あ、姉上、我はキンタマという単語は二回しか出しておりません!」
 我が抗議すると、姉上は無言で我に鋭い眼を向けた。
 ……よく見れば彼女の影からは、二本の角がにょきりと生えている。
 これは多分抗戦すべき相手ではないな。我はそう判断して戦略的に口を閉じた。
「ユマ、お茶を取っておくれ」
「はいはい……うんしょ」
 ぶら下げられたままの母上が指示すると、姉上は可愛らしく背伸びをして彼女にお茶を手渡した。
 母上はそれを啜ると、足をぶらぶらと揺らして、はぁーっと息を吐く。
「アグノ、我にもお茶を」
「そなたなどそのまま干からびれば良い」
 急にのどが渇いた我が同じように妹に頼むと、先程まで我らのやり取りを呆れ顔で見ていた彼女はそんな冷たい事をのたまう。
 我が家族は眼下のお茶と比べようもないほど冷たい。こんな時あの方がいれば優しくお茶を手渡してくれるのに。などと我が考えていると。
「ふあぁ、寝過ぎちゃった」
 不意に居間の入り口から間延びした声が響いた。
「ミュッケ姉様!?」
「何ぃ!?」
 アグノの声に慌ててそちらを見ると、そこには確かに我が姉様、ミュッケ・ザ・ドラゴンが立っていた。
「あれ、ミュッケは死んだって聞いたけど」
「やだなぁお母さま。わたし吸血鬼なんだから復活するよぉ」
「あれから一時間も経っていませんよ!?」
 寝起きでいつも以上にのんびりと話す姉様に、我は驚愕のままつっこんだ。
 いくら吸血鬼と言えど、普通は復活に半日はかかるはずだ。ちなみに時間の単位はやはりあなた方の物を使っているのであしからず。
「んー、だいぶ死に慣れたからねぇ」
「慣れの問題なのですか!?」
「というか姉様、着物が思いきりはだけておる!」
 更に追求しようとした我だったが、アグノの言葉で目を向いた。
 姉様の着物には帯が巻かれておらず、はだけているというかもはや全ご開帳の様相を呈していたのだ。
 深紅の着物の影が反射した肌は、死人のように白く、しかしどんな生者より瑞々しい。
 胸から腹にかけてのラインはたわわに実るよりも曲線の美しさを優先させていたが、へそのくぼみは彼女の肌の柔らかさを想起させ、何者をも魅了する魔性の穴となっていた。そしてその下はといえば……。
「ポン太郎」
 声と共に、我の視界が塞がれた。どうやら姉上が影から新たに出した手で、我の顔を覆いつくしたらしい。
 それは磯臭い匂いを放ち、敏感な我の鼻をぎゅうぎゅうと押しつぶす。
「何をじっと見ているのえっち」
「みみみみてまふぇん!」
「アンタはこういうのに欲情すんのかい」
「ひ、ひてまふぇん!」
「最低なのじゃ」
「ぼぼぼぼぶぼ!」
 必死で弁解するが、姉上が執拗に押しつぶしてくるので後半はもはや言葉にならない。
 我が姉様を見ていたのは、二秒ぐらいである。いや、計算を間違えた。五秒ぐらいは見ていたかもしれない。
 だがそれは美しいものを前にした生物としての当然の行動であって、けっしてやましい気持ちがあっての事ではない。
「もぉ、ポンちゃんてば、お姉ちゃんのこと大好きなんだから」
 磯臭さで窒息しそうだった我の体を、側面から冷たくてやーらかい物が包み込む。
 どうやらミュッケ姉様が姉上の手ごと我の体を抱きしめたらしい。
 だからといって苦しさは軽減されずむしろ肺の空気まで押し出され窒息寸前である。
 誰か助けて! と思ったら今度は反対側の手が我以上にもふっとした感触に包まれた。
 ユマ姉上がしていた目隠しが外れ、これ幸いと我が隣を見ると、そこにはフウ姉さんが立っていた。
 立っていた。そう、二足歩行で。
 彼女はふさふさの毛皮に覆われてはいるものの、人間のような手足と胸には立派な双球を持つ半獣の姿に何時に間にか変身していたのだ。
 姉さんは我を抱きしめながら言う。
「ポンは私のほうが好きって言ってた」
「え、そうなのポンちゃん? お姉ちゃんショック……」
「そ、そこまでは言ってません!」
「む……」
 さりげなく我の証言を捏造しようとするフウ姉さんに反論すると、彼女は我ごとその証言を握りつぶそうとするがごとく、両の腕にぎゅうっと力を込めた。
「あががががが」
 フウ姉さんは、世界最凶の魔物と名高いドラゴンと、地上最強の動物と呼ばれる虎のハーフである。彼女が本気になれば、本当に我をぶちゅっと潰すなど容易い。
「いいもん。それならお姉ちゃんのこともっと好きになってもらうから」
 もはや抵抗する気力もない我の首筋に、何かひゃっこい物が触れる。
「ミュッケ姉様、牙は反則だわ」
 ユマ姉上が何やらミュッケ姉様を制しているようだが、段々と視界がぼやけていき、その内容もよく把握できない。
 遠のく意識の中、アグノのヒステリックな声が聞こえる。多分この期に及んで我への罵倒だ。
 母はきっと、知らん顔でお茶を啜っていることだろう。
 あぁ、なんと麗しい家族愛。つまりこれが、我と我が家族達の標準的な暮らしである。

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