「Iam Not Heroine――僕らのモラトリアム」

第三章 「They are Heroines, Too」 その3


 時は移って日曜日の事。
 俺がキッチンで夕食の支度をしていると、背後で玄関のドアが開いた。
 貴人達が帰ってきたのかとも思ったが、そうではないらしい。
「こんにちはー。あ、美冬ちゃん」
「ナチュラルに侵入してくんじゃねぇよ。ていうか、ちゃん言うな」
 振り返ると、そこにいたのは三人娘の中で一番何を考えているか分からない女、白島絹子だった。
 ……俺、鍵かけたよな。頭で確認しながら白島を睨む。
 現在ゲヘナと貴人は二人で買い出しに行っている。何か間違ってデートっぽくならないかと言う俺の姦計だ。
 カノヌは……まぁどこぞでろくでもない事でもしているのだろう。同じく家にはいない。
「あら、エプロンしてるのね。可愛い」
「別に誰かにアピールする為につけてる訳じゃねーよ」
 白島は実用性でエプロンをつけている俺の後ろから忍び寄り、そっと肩に手を置く。
「うお! 包丁持ってる時に妙な事すんな!」
「ごめんねー。美冬ちゃんが可愛くてつい」
 首筋に白島の息がかかる。思わず悲鳴を上げる俺だが、それにもかまわず彼女は更に、邪魔なので束ねてある俺の髪をくるくると弄び始めた。
「もも、もしやお前ってソッチ系なのか? 俺は色んな意味で期待には答えられないぞ!?」
「えー、私はあくまでタカちゃん一筋だよ? でも可愛い女の子がタカちゃんの周りにいっぱい集まってるのを見るのも好きー。あ、枝毛」
 第二の貞操の危機を感じ抗議するが、白島は意に介した様子もなく人の髪の毛をいじくり続ける。
 自分のライバルが増えるのを楽しみにするとは……俺にはさっぱり分からん趣味だ。
 ため息をつき、俺は切った野菜をボールに移した。
「で、何の用だよ。貴人ならしばらく帰らないぞ」
「うん、知ってるよぉ。今日は美冬ちゃんに会いに来たんだ」
「俺に?」
「そ」
 なんで貴人の動向を把握してるんだ。それも気になったが、もっと引っかかったのは彼女の後半の言葉だ。
「何が目的だ」
「うーん、美冬ちゃん髪がボサボサだねぇ。ちょっとお手入れしようか」
「人の話聞けよ」
 重ねて尋ねるが、とぼけた様子の絹子はそれに答えない。
 それどころかついには結んでいた俺の髪を勝手に解き、手櫛を通し始める始末だ。
 こいつ、自分の要求が通るまでそうし続けるつもりか……。
「ね?」
 まるで人質のように人の髪を平手で揉みながら小首を傾げる白島に、俺は諦めて了承せざるおえなかった。

 ――それからとりあえず夕飯の支度を中断した俺は、仕方なく白鳥に女の命である髪の毛を預ける事となった。
 まぁ俺の魂は女じゃない訳だから、そこには何も宿ってはいないと思うが。
「美冬ちゃん、ちゃんとブローしてる?」
 後ろから髪を梳いている白島が、鏡越しに俺を見つめて問いかける。
 ちなみにこの場所は、貴人の両親の部屋にある化粧台だ。
「あー? この時期は自然乾燥だな」
 女子のオシャレに詳しくない俺でも、ブローがパンチでない事ぐらいは分かる。
 しかしそれを実践するほどの情報や根気は無い。
 濡れたまま寝ると布団とパジャマが酷い事になるので、ある程度タオルで乾かしてから纏めて寝るぐらいの知恵はつけたが。
「トリートメントはちゃんとしてる? あれもちゃんとつけ方にコツがあって……」
「あー……たまにつけたりつけなかったりだな」
 髪を握られている以上嘘を言ってもバレるだろう。
 俺が正直に答えると、白島は目を見開いて、口をパクパクと開閉してから叫んだ。
「えー! せっかく可愛いのにもったいない! 絶対もったいない!」
「そ、そんなに!?」
「そうだよ! というか全世界の髪の毛に悩みを持つ女の子に対する侮辱だよ!」
「マジか……」
「うん、元から可愛いのに、それを維持する努力すらしないのは犯罪だよ!」
 そこまで言われると、なんだか自分が全面的に悪い気がしてくる。
 まぁ美人なのに鼻毛が伸び放題の女とかいたら、俺も確かにもったいないと思うだろうが。
「……言うだけあって、白島は綺麗な髪してるな」
「うふふ、努力してるもん。でもありがとう」
 男だったら口説き文句だと思われそうな褒め言葉も気兼ねなく言えるのが、この体になって得た数少ない利点だ。
 白島は柔らかくそれを受け止めてから、「あ、そうだ」と何か思いついたような声を上げた。
「呼び方は絹子でいいよ。と言うか、絹子がいいなぁ。好きなの、自分の名前」
「髪の毛が絹みたいだから?」
「そうなれるように目指してるんだけどね。まだそこまではかなぁ。タカちゃんは相変わらずおさげが好きみたいだから、そうしようかなとも思うんだけどね」
 白島……絹子の言葉に体がぶるっと震える。
 彼女が言っているのは間違いなく、彼女の事だ。
 絹子のように長い黒髪を持っていた彼女。それを解けば、夜の海のように豊かで波打つ髪を持っていた彼女……美冬さんの事である。
 そうか、貴人の幼馴染である彼女もまた、美冬さんの事を知っていてしかるべきなのだ。
「動かないでねー。これから毛先だけちょっと切っちゃうから。私が今日来たのは、お礼を言いたかったからなの」
 俺の頭を軽く押さえると、絹子は傍に置いていたハサミを手に取り俺の髪に当て始めた。
 そういえばこの女、この家にあるこういう道具の在り処を全部把握してたな。
「お礼?」
「織江ちゃんのこと、内緒にしてくれてありがとう」
「……お前も知ってたのか」
「昔から美人ちゃんだったもの。お化粧したぐらいじゃ誤魔化せないわ」
 問いかけると、絹子は笑いながらそう答えた。
 どうやら幼馴染である彼女は、織江の正体にも早々に気付いていたらしい。
「お前こそ言わないのか? あの、織江のこと貴人に」
「彼女が言わなかったら、多分私が言ってたもの。他の人にあっちの美冬さんのこと」
 ……更にこいつは、貴人と美冬さんの関係も察していたようだ。
 まぁ、十歳男子の隠蔽力と、同い年の女子の察知力じゃ、勝負になりはすまい。
 それにしてもその鋭さを貴人に少し分けてやれないだろうか。
「それに、あの姿はあれで楽しんでるみたいだからね、織江ちゃん。普段より積極的になれるって言ってた」
 そういや、パンダメイクしてる時のアイツは基本、部屋にいる時よりはっちゃけてたな。
 あの全部が全部演技って訳じゃなく、あれも織江の一部分なのだろう。
 そう俺が納得していると、絹子は「それに」と付け足した。
「やっぱり、タカちゃんがいろんな人に囲まれているのを見るのは嬉しいから」
「お前、さっきもそう言ってたけど俺にはよく分かんないな。それってライバルが増えるって事だろ?」
 十数年経った今ですら、貴人の話を聞いた時俺は奴に嫉妬を覚えた。
 好きな人に異性が……それも複数付きまとっていたら、普通は気が気でないと思うのだが。
 問いかけると、絹子は若干顔を翳らせた。しかし口調はあくまで明るいままで、とつとつと語り始めた。
「タカちゃん、あの先生がいなくなってからしばらくは、積極的に人と関わろうとしなかったから。時間をかけて、ゆっくりと立ち直って、ようやく今みたいに人助けをがんばれる子になったけれど」
「あいつが?」
 問い返したが、俺には分かる気がした。何故なら、自分がそうであったから。
 人に優しくという美冬さんの宿題は、それを少しでも緩和する為に残されたと考えるのは、彼女贔屓が強すぎるだろうか。
「うん、今でも人付き合いに慣れてないところもあるし。やっぱり自分が関わる事で周りが壊れちゃうのが怖かったんじゃないかな?」
 しかし彼女の宿題は、多分美冬さんの想定外の所で思わぬ弊害を生んだ。
 あいつは鈍感であるが、さすがに女の子達が自分に好意を持っている事はある程度分かっているようだ。
 しかし彼女達に触れた時、あるいはその気持ちと向き合おうとした時に出てくる『彼女』の影が濃すぎるあまり、優しくなろう、相手を傷つけないようにしようとし、逆に拒絶してしまうようになったのだ。
 ……彼女は、色んな意味で俺達にとって偉大過ぎる。
 思索に沈んでいた俺を、絹子が後ろ髪を払う動作で現実に引き戻した。
 俺の髪は、オシャレに疎い自分自身でも分かるほど綺麗に整えられている。
「慣れたもんだな。美容師にでもなるのか?」
「そんなんじゃないよ。ただタカちゃんの髪もたまに切ってたから」
 俺が褒めると、絹子は再度俺の後ろ髪に櫛を通しながら答える。
「あいつが今あぁしてるのも、多分お前のおかげだろうな」
 貴人が立ち直ったのは、きっとこの娘があいつの世話を、こうやって焼いてきたからだ。
 人への親切に仕方、励まし方をこの娘がこうして教えていったのだろう。
 絹子だけじゃない。織江も、三瓶も、ゲヘナもアイツを心配し、助けになろうとしている。
 羨ましいと、俺は初めて素直にそう思った。
「もう、美冬ちゃんって男の子だったら物凄く女の子泣かせだったろうね」
「そんな事はまるでなかった」
 身をよじりながら照れる絹子はそういうが、そんな実績はまるで無かったことが俺の人生において証明されている。
 俺の言い様に首を傾げた絹子だったが、とりあえずスルーすることに決めたらしい。
「でも確かに、私がした事がタカちゃんの助けになってたなら嬉しい。今のタカちゃんは、私の誇りだもの」
 そう言って、それを確かめるように目を閉じ、一旦言葉を切る絹子。
「だから、今みたいにタカちゃんを好きな女の子達が集まってるのを見ると、幸せなの」
 そのまま笑った彼女の顔は、本当に幸せそうだ。
「あいつの母ちゃんみたいだな、お前」
 その笑顔に自分も幸せになるような、もしくは寂しくなるような複雑な気持ちが湧き、俺はそう茶化してやった。
 貴人の幸せを自分の幸せと言い切る様は、恋人のそれというより母性愛に近い。
「そんなんじゃないよぉ。隙あらばタカちゃんのセカンド貞操はもらおうと思ってるし」
「……俺が悪かった。確かにそんな母親いないわ」
 と思ったら、しっかり貴人の独占も狙ってやがった。
 げっそりとした俺に、絹子は少し寂しげな口調で付け足した。
「こんな関係、ずっとは続かないしね。でも、もうちょっとだけみんなで居たいの」
 確かに、二十代三十代になってもこんなラブコメ続けられる訳はない。
 それを打ち壊そうとする――例えば俺みたいな存在は、確実に迫っているのだ。
 胸に迫る寂寥感の正体は、それであった。
「美冬ちゃんも、みんなの中に入ってるんだよ」
「俺は違ぇよ」
 俺は、こいつの願いの敵だ。
 こいつらが真剣に貴人が好きで、あいつを支えたり励ましたりしている中で、俺は仕事をこなしているだけだ。
 ゲヘナを邪な理由で推し、この関係を壊そうとしている。
 嘘だってついているし、この青春模様に混ざる資格なんかない。
 なんだか情けなくなり、鏡に映った絹子の顔も自分の顔も見られない。
 そんな俺に、絹子は。
「美冬ちゃんは、ミニスカートとか履かないの?」
 唐突極まりない台詞を吐いた。
「はぁ!?」
 ちょっとこいつらを尊敬しかけた俺がアホのようだ。
 思わず振り返りかけて、視界の端に鋏がちらついて慌てて正面を向きなおす。
「だってぇ、今日もジーンズだし。制服もスカート長めじゃない」
「あんなもん恥ずかしくて履けるか!」
「えー! 絶対もったいないよー! 綺麗な足してるんだから一回履いてみようよ!」
「んなこと言われても今度こそ嫌じゃ!」
「履いてみたら魅力に目覚めるかもしれないよ?」
「目覚めたら困るわ!」
「ぶぅー。強情だなぁ」
 先程のように髪を整えるのとはまるで違う。
 俺が断固として拒否すると、絹子は子供のように頬を膨らませた。
 それから、今度は聖母のようににこやかに笑う。
「そういえば美冬ちゃんって、胸が敏感だよね」
「なな何を唐突に言い出すかな?」
「うふふ、お姉さんは何でも分かるのだ」
「織江のキャラ取るんじゃねぇよ!」
 アイツに教えられたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 約束を守ってくれたことに感謝するが、どうやら無駄だったようだ。
「美冬ちゃんはいっつも胸をガードしてるしね。さて、お姉さんって大きな胸にも興味あるんだけどなぁ」
 絹子が左手をワキワキ、右手のハサミをシャキシャキと動かす。
 やばい、これ弄ばれるだけじゃなくてもっと対象年齢高めの猟奇的な事をされる。
「分かった! 分かったから! ミニだろうがタイトだろうが履くから刃物はよせ!」
 たまらず叫ぶと、絹子はハサミを脇に置き、手をパンと合わせていつもの笑顔に戻り朗らかに言った。
「じゃぁ私、家にあるのをいっぱい持ってくるからちょっと待っててね!」
「いっぱいっておい!」
 俺が抗議するのも構わず、絹子は嬉しそうに部屋から出ていく。
 もしかしてとんでもない約束をしてしまったんじゃ。
 妙に手触りの良くなった毛先を弄りながら、俺は激しく後悔をした。

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