「Iam Not Heroine――僕らのモラトリアム」

 第二章 「He is Not Hero」 その11


「フゥー……」
 三十分後、俺は貴人の部屋の前に立っていた。
 あれから居間に戻りカノヌと合流したが、彼女は一向に口を開く気配を見せない。
 仕方なくゲヘナに着替えるよう指示し、夕食の準備をしてから貴人を呼びにきたのだが……。
 覚悟が必要なアイツの過去とは何なのだろう。
 そんな物に、まだ知り合って間もない俺が踏み込んで良いのか?
 貴人の部屋の前でしばらく考え込んでいたが、答えが出るはずもない。
 ええい、こんな姿してるから男らしくないことをウジウジと考えるんだ。
 意を決し、俺は貴人の部屋のドアを開けた。
「おーい、飯だぞ」
「うわぁ!」
 すると部屋の中にいた貴人は驚きの声を上げ、手に持っていた何かを取り落とした。
「悪い。ノックを忘れたな」
「あ、いや、良いよ。お互い様だし」
 ベッドに腰掛けている貴人の言葉で、そういや一昨日はそれで俺が風呂に乱入されたんだと思い出す。
 なるほど、これでおあいこか。
 そう思うと妙におかしくなって、つい笑ってしまった。
 貴人も多少緊張が解けた様子で、まだ強ばりがあるものの一応笑顔を見せた。
「あ、あの、さっきはごめんね」
「良いって。でもゲヘナには謝っておけよ」
「うん……」
 素直に返事をした貴人に、良しと頷く。
 ゲヘナはあれで繊細な娘みたいだからな。
 状況をよく分かっていなかったようなのが救いだが。
 それだけ言って階下に戻っても良かったのだが、ふと、貴人が落とした物が目に入ってしまった。
 それは、裏返しになった写真だ。
 落とした時、開いた扉の風に誘われたらしく、俺の足下へと運ばれてきていた。
 貴人の過去、ね。
 俺になんか見る権利は無いかもしれない。
 だがそれを知らないことには、ゲヘナとの縁結びは前に進まないだろう。
 それにもう一つ。ほんのちっぽけな理由だが、それが分からないと、こいつと今日の放課後のように無邪気に遊ぶことはできなくなる気がしていた。
 ……でも多分それは、こいつが決めることだ。
 俺とまた遊びたいと思ってくれるなら、あちらから打ち明けてくれるだろう。
 なぁに、俺だって多少長く生きてるんだ。
 こいつの昔に何があろうと今更態度なんて変えはしないさ。
「これ、落ちたぞ」
 なるべく気楽にそう考えながら、俺は床に落ちている写真を拾った。
 それを裏返したまま貴人に歩み寄り、渡す。
 俺なりの、今はまだ話さなくても良いという意思表示のつもりだった。
 貴人は「ありがとう」と言って、はにかみながら手を伸ばす。
 そしてそれを受け取ると、あっさりと手首を返して表面を上に向けた。
「うぉい!」
「え、何?」
 俺の心遣い完全に空回りかよ! お前って本当に肝心なところ鈍いな!
 とぼけた声を出す貴人に、そうツッコもうとした。
 しかし、それは叶わなかった。
 その瞬間俺の呼吸は、脳は、完全に活動を停止しており、何をすることもできなくなっていたからだ。
 そして次の瞬間にはさぼった分を取り戻そうと心臓がとんでもない音を立てながら活動を再開し、それを冷却する為の汗が大量に吹き出した。
 脳はまとまらない言葉の羅列で渋滞になり、まともな思考が表面に昇ることはない。
 供給量が一気に少なくなった酸素は循環をやめた体の中で腐り、膝が笑い声を上げ立っていられなくなった俺は、貴人が飛び退くのもかまわず彼の座っていたベッドへと腰を下ろした。
「――――」
 何か叫んでいる貴人の手から写真を奪い取ると、先ほど視界に入ってしまったそれを、もう一度まじまじと見る。
 ――写真は二人の人物を写した物だった。
 一人は貴人。小学校三、四年ぐらいの物か。
 紅顔の美少年といった案配で、その笑顔はゲヘナ達に見せる物とも俺とゲーセンへ行ったときの物とも違う。照れながらも幸せいっぱいといった感じの物だった。
 そして、彼の後ろには貴人少年を包み込むように立っている女性がいた。
 白いセーターを着た、おさげでメガネで巨乳の女性だ。
 彼女は貴人を抱きながら、婉然とした微笑みを、写真の向こうにいる俺へと向けている。
「この人の、名前は?」
「美冬さん、っていうんだ。君と同じ字で……すごい偶然だよね」
 俺が口を開くと、貴人はほっとしたように息を吐いてからそう呟いた。
 偶然じゃない。偶然なんかじゃない。
 俺の名前は、あの宇宙人が俺が呟いた寝言から盗用した物なのだ。
 これは元々、彼女の名前だ。
 しかし、例え名前が違っていたとしても分かる。
 彼女は五年は経っているであろう写真の中でもまるで変わることはない。
 間違いない。俺の記憶の中の彼女と、この写真の人物は同一人物だ。
「彼女は僕の家庭教師だったんだ。その、色々あって辞めることになっちゃったけど」
 貴人は過去を懐かしむ様子で、俺の知る彼女の思い出を語る。
 あるいはそれはまだ治りきっていないかさぶたを剥がす様な、自虐的な調子だった。
 その、何か彼女と深い繋がりがあったことを匂わせる様子を見ていると、黒い物がムクムクと頭をもたげてくる。
 それは単純でありきたりで相手の気持ちを考えない優しくない、だからこそ余計に自らを苛立たせる。
 嫉妬、という物だった。
「寝たのか?」
 俺の口が勝手に動き、ひどく冷たい口調でそう尋ねた。
「え、な、何でそんなこと聞くの?」
 貴人は俺のストレートな質問にたじろぐと、耳まで赤くしそっぽを向いた。
 言葉は濁されたが、それで答えは分かった。
 そうか、そうなのか。俺はあの人の特別じゃなかったんだ。
 俺だけが、彼女と心を通わせた訳ではなかったのだ。
 それを思うと、俺は、俺は……。
「ほぅ……」
 息が、腹の奥から漏れた。
 何だ、今のは。まるで自分の体ではないよう。いや、確かにこれは本来の俺の体ではないのだが、そうではなく。
 今のは落胆や憤りの溜息じゃない。今のは……安堵の息だ。
 俺は今、確かに安堵した。
 体がそう反応してから、やっと気づいた。
 俺は、いつの間にか彼女を思い続ける事を重荷に感じていたのだ。
 だから、彼女にとって俺が特別じゃないと分かった途端ほっとした。
 これで以前より彼女を神聖視しなくて済むと。
 俺はどこかで自分の鬱屈した人生の責任を、彼女に求めていた。
 自分をこんな人生に彼女を――恨んでいた。
 それに今、気付いてしまった。
「あの、大丈夫?」
 その声で、はっと我に返る。すると貴人が俺に体を寄せ、顔を覗きこんでいた。
「お前は、優しいな」
 多分、相当皮肉げな声が出たと思う。
 こんな薄汚い大人になってしまった俺に比べて、こいつは本当にまっすぐ、眩く育っている。
 俺が本当に嫉妬しているとしたら、多分そこだ。
「優しい訳じゃないよ。優しくなんかない。ただ、言われたからやっているだけなんだ」
 妙に鈍感なこいつの事だから、もしかしたら皮肉にさえ気づかないと思った。
 それだけに、俺の言葉で貴人が表情を今までに無いほど暗く沈ませたのは、自らの憂鬱を一瞬忘れるほど驚いた。
「……言われた?」
 聞き返すと、貴人は六月の雨が続いた押入れの隅のような湿った声音で俺に答えた。
「彼女に、美冬さんに。最後にお別れする時、彼女に言われたんだ。人に、特に女の子に親切にすることって」
 あの人との別れ。俺の時はどうだったっけ。確かドタバタとしてまともな別れなんてできなかった気がする。
 しかし、彼女の言葉を賜った貴人を羨む気には、今はなれなかった。
「僕は、ずっとその言いつけを守ってきただけなんだ」
 貴人は厳しい表情で、自らを責めるように言葉を吐き出す。
 それは、ゲームセンターで見せた物ともまた違う。しかしそれもまた彼の、十六歳の高校生である響野貴人の、本当の顔だった。
「でも、できないんだ。女の子に触れる度彼女を思い出して。心の中で比べちゃう自分がいるんだ。こんなの優しくないよ。僕は優しくなんてなれない」
 気付けば、先程とは反対に、顔を上げた俺の横で貴人が俯いていた。
 あぁそうか。だからこいつ、あんなに触れられることを嫌がっていたのか。
「バカだな、お前」
 俺はやおら貴人の腕を掴むと、こちら側に引っぱった。
 俺の膝の上に落ちる貴人の体。
 彼は体を起こそうともがくが、それを押さえつけつつ側頭部を三回撫で、髪を逆なでるようにもう一度梳く。
 するとビクリ、と貴人の体が震えた後、だんだんと力が抜けていく。
 ……それは、俺を落ち着かせるとき、眠らせるとき、彼女が行っていた撫で方だった。
 その手に撫でられれば、どんな怒り悲しみやりきれなさも、手のひらに落ちた雪のように溶けていったものだ。
 そんな彼女の指先を、十年以上経った今でも俺は覚えていた。
「思い出して、比べても良いんだよ。相手にしてみりゃ同じ土俵に立てない方が、きっと辛いと思うぞ」
 多分、あの三人組が過剰に貴人へとアピールしているのはそのせいだ。
 アイツらはお互いが競いあっているように見えて、実際はあの人を忘れようと努める結果より強く美冬さんに縛られている貴人の目を、自分に向けさせたくて必死なのだ。
「それで、あの人より素敵で、あの人の思い出より大切にしたいって女がいたら、その子をめいいっぱい好きになれば」
 貴人の周りには、こいつを慕う女子が沢山いる。
 その好意にきちんと目を向ければ、こいつならきっと正しい選択ができるだろう。
 個人的には色んな事情もコミでゲヘナなんかオススメな訳だが。
「それにさ」
 俺の言葉に応えず、まるで眠っているようにも見える貴人に微笑みながら、俺は言葉を付け足した。
「お前に、彼女の、その人の言葉を重荷に感じて欲しくないんだ」
 無理をして目を閉じ、結局は心の奥底で彼女への愛情を別の物へと歪ませてしまった俺。
 貴人には、そんな風になってほしくはなかった。
「……貴方はちゃんとできてる。今はまだ、自分の目には見えないけれど、私は見てるから」
 変に気持ちが高ぶって、俺は先生のような口調で貴人にそう告げる。
 告げてから、これは俺が実際に言われたセリフだと思いだした。
 最後じゃなくても、俺は彼女に色んな言葉をもらって、色んな事を教わっていたのだ。
 それに今更ながら思い当たると、なんだか心が暖かくなってくる。
 あぁ、憎いだけじゃない。重たいだけじゃない。
 彼女が他の誰とどんな関係を結んでいたとしても。
 俺は今でも、まだ彼女が好きなんだ。
 そう自覚し、俺が嬉しいんだか自嘲なんだか分からないまま口の端を緩めていると。
「ひゃっ」
 いきなり貴人が頭を動かし、俺を見上げた。
 突然太股を襲ったこそばゆさに、悲鳴を上げる俺。
「君は……不思議な人だね」
 貴人が、まじまじと俺の顔を見た。
 なんだ。俺今やりすぎたか?
 貴人がゆっくりと上半身を起こす。押さえつけていたはずの手に何故か力が入らない。
 やばい、ちょっと。お前何するつもりだ。俺は先生じゃないんだぞ。それどころか女ですらないんだぞ。
 心の中で抗議するが、声が出ない。体が動かない。頭の中がごちゃごちゃになって……。
「タカぽーん! 夜の毒味にきたのだ!」
 沈黙を破ったのは、予期せぬ珍入者だった。
 笑顔で扉を開け放った桐生院は、俺達を発見するとその表情のまま固まる。
「えっと、これは誤解なんだ織江ちゃん」
「あ、バカんなこと言ったら本当に誤解するだろうが!」
 まるで浮気を誤魔化すダメ男のような事をのたまう貴人の口を慌てて塞ぐが時すでに遅し。
「新居田美冬ー!」
「俺かよ!?」
 膝上の貴人を放り出し、襲いかかってきた桐生院から逃げまどう。
 その騒ぎでようやく不法侵入に気づいたカノヌにより一旦は桐生院も退去させられたのだが、この件は後にもっと厄介な事態を引き起こす羽目になる。

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