魔王の家の村娘A

9話 VS魔法先生


 さて、家に残された子竜、キクだったが。
 結果だけ言ってしまえば、この子竜の留守番は完全に失敗に終わった。
 幼きドラゴンは良を待ちきれず、クッションを二つ破壊し、ソファーを酸で溶かし、冷蔵庫を漁り開けっ放しにし、中の食材をいくつかダメにした。
 良は大いに怒り、結局きちんと留守番をすれば帰ってきた後キクを撫でるという約束は、破棄となった。
 そして次の日の昼。
 アンは居間で洗濯物を畳んでいた。
「お兄ちゃんのナデナデを喰らいたての体で、半日も我慢できる訳ないのに」
 妙に勝ち誇った顔をしているのは舞。部屋の隅で丸まっているキクを横目に、彼女はアンと向かい合わせになり畳むのを手伝っている。 兄とのスキンシップを邪魔されてから、舞はキクに妙な対抗心を持っているようだ。
 キクが暴れた理由は愛撫中毒だったのか。良の下着を畳みながら、アンは改めて彼の指に恐怖を感じた。
「クッションはともかくソファーはどうすれば良いのだ。とりあえず布テープを貼っておくとして……」
 件の良は、大きな穴の開いたソファーを前にぶつぶつと呟いている。昨日も買い物が終わったサイフの中身を見て悲しそうな顔をしていたし、魔王家の財源は底なしと言うわけではないらしい。
 自分も節約には協力しようと、アンは決意した。
 しかしそれはそれとして、良が呟く度彼の方を気まずそうに見、彼に気づかれる前に窓へと視線を向けなおすキクは少々不憫だ。
「ま、まぁ、ドラゴンがやった事としては被害は極小でしたし。むしろ家が壊れてなくてラッキーぐらいに思ったほうがいいかと」
 自分の所為で帰りが随分遅れたという罪悪感も手伝い、アンはキクをフォローした。
「力が強いのは分かるが、そんなに凶悪なのかこいつは」
 アンに言われ、良が胡散臭げな視線をキクに向ける。
 彼は自分がどんな危険なものを飼っているのか理解していないのか。アンは必死になって説明した。
「あ、当たり前ですよ。普通の剣じゃ傷も与えられないし、魔法だって弱いものは届く前に消されますし、骨格はトカゲというより猫寄りで、大きくなればなるほど素早くなるんです!」
 へぇ、と感心したようにキクを見る良と舞。
 あまり恐怖した様子がないのは、例えに猫など出したせいだろうか。
「村娘の癖に詳しいな。例の姉の受け売りか?」
「それもありますけど、ドラゴンってやっぱり有名なんです」
「それはやはり、こいつが異世界最強の魔物だからか?」
「えーっと、実はドラゴンって、魔物じゃないんじゃないかっていう学説が有力なんです」
「魔物以外のなんなのだ、こいつが」
 穴を避けてソファーに座りながら、良がキクを指差す。
 少し考えてから、アンは答えた。
「ドラゴンってくくりの動物……ですかね。そもそも魔物というのは、元々は魔王が作り出した生物って意味らしいんですけど」
 現在、アンのいた世界にいる魔物のほとんどは初代魔王が作り出したもので、それらが交配しあったり進化して種類が増えている。
 人間の家畜、もしくは友として暮らす魔物もいるので、人類に仇名す生物を全て魔物とは呼ばない訳だが……。
「多分この世界にはないと思うんですけど、私達の世界の主要な街とか道とかには、魔物避けの結界が張られているんです。魔王が毎回現れる北の大地デガメルギオから遠ざかるほど強い結界が張られていて……というか魔王はそれを近場から壊そうとするので、遠地ほど強い結界が維持されてるんですけど」
 アンのいた村は北の大地から遠く離れており、彼女の通った泉への道もまた魔物避けの結界が張られていた。しかし。
「でもドラゴンは、それに引っかからないんです。いつでも、どこでも、どんなに結界が強くてもフラっと現れてその場所を破壊しつくすので、ドラゴンは有名なんです」
 ドラゴンは魔物避けの結界の影響を一切受けない。そしてだからこそ、ドラゴンは魔物ではないのではないかと言われており、人々に恐れられているのだ。
「それは、えげつないな」
「最強っていうか最凶?」
 それを聞き、ようやく顔を曇らせる兄妹。
 舞が同じ発音の言葉を繰り返すが、アンにはそのニュアンスの違いがはっきりと分かった。これも翻訳魔法の力だろうか。
 キクがこちらを見、満足げに鼻を鳴らす。勘違いかもしれないが、どうやら恐れられてご満悦のようだ。
「そちらの方が正しいかもしれません。ドラゴンの制御ができた魔王は歴代でも二人だけで、その時は両方とも世界が本気で支配されかけた、もしくは一度支配されてしまったそうですから」
 だから、竜とは本当に恐ろしい生き物なのだ。普通の人間なら間違っても手元になど置きたくは無いのだが。
「そして俺が三人目というわけだ」
 その言葉を聞き、良がニヤリと笑いを漏らす。
 しまった、余計な事を教えてしまったかもしれない。良が世界征服の野望を持つ魔王なのだと久々に思い出し、アンは呻いた。
「そもそも魔王って、なんなの?」
 舞がくりくりとした眼でアンに尋ねる。魔王の妹がそれを聞くのか。
 改めて問われるとアンも困ってしまい、良の方を見る。
「魔王って、なんなんでしょう」
「俺に聞くな」
「え、だって良さんって、魔王の業務内容に憧れて就職を希望してるんじゃないんですか!?」
「魔王を職種のように言うな! 俺はその、せっかく異世界に行くのだからでかい事をしてやろうと……」
「ノープランだったんですか……」
 良の言葉に、半ば呆れるアン。良は何かやりたい事があってあちら側に行きたいわけではなかったのか。
 では何故異世界になど来ようと思ったのか。アンは疑問に思ったが、同時に良がこちらを睨んで「それで?」と眼で尋ねる。
 どうやらアンなりの魔王の定義を尋ねたいらしい。
「えーと、魔王っていうのは、とりあえず北の大地から現れて、魔物を従えて人間を襲う人、もしくは魔物の総称だと思います。大体五十年に一回ぐらい現れて、人類と戦争をします」
 思いの外あやふやな説明になってしまった。しかし前回の魔王が倒されてからアンは生まれ、今回の魔王に関しても、北のほうにそういうモノが出たという話しか片田舎の村には入ってこない。
 ドラゴンとは違い、魔王とは謎に包まれつつも人々に恐れられる存在なのであった。
「……スパンの長い祭りか自然現象のような奴らだな」
「良さんが収穫祭のような楽しいお祭り魔王になるというのなら、私も喜んでこちらの世界に招待するんですが」
 アンが苦笑しながら言うと、良は嫌だねと顔を歪ませた。それなら人類と共存できるのに。アンは口を尖らせてから、ふと思いついた事を言ってみた。
「大きい事をしたいのであれば、勇者様になったらどうです?」
 これなら成功すればこちらの世界で最大級の功績になりうるし、アンも彼を喜んであちらの世界に招待できる。
 良い事ずくめだと思ったのだが。
「勇者……勇者だと?」
 良は、こめかみに血管が浮き出るのではないかというほど顔を歪ませている。
「ダ、ダメでしょうか」
「当たり前だ! バカを言うな! 勇者など、そこら辺に悩んでそうな奴がいればおせっかいに手を伸ばし、善意ですという顔をして、し、親切を押し付けるはた迷惑な職業ではないか!」
 ソファーから立ち上がり、ジェスチャーを加えながら自らが持つ勇者像を演説する良。
 え、それのどこがいけないの? とアンは思うのだが、彼にとっては大問題らしい。
 何かまずいことを言ったでしょうかと舞を見ると、彼女は弱弱しい微笑みで首を左右に振った。
「あー、そんな者になどなれるか! 俺はやっぱり魔王だ! 魔王になるぞ! よし!」
 ついに良は自分の就職先について決意を固め、握りこぶしを作って天に掲げた。
 私、もしかしてとんでもない人に火をつけてしまったのでは。
 初日は物理的に火をつけたが。
 などとくだらないことを考えていると、良の顔がこちらを向く。
「よし、ではお前は俺様に今すぐ魔法を教えるのだ!」
 そして彼は、突拍子もない事を言い出した。
「な、何で急に」
「昨日から考えていたが、お前の姉のようなターミネーターと戦うことを考えれば、やはり魔法は必須だ!」
「タ、ターミ?」
 意味は分からないが、姉があまり良く言われていないのは分かる。
 良の言葉は続いているが何か言い返さなければとアンが考えた。
「お前の世界には魔法が生活に密着しているのだろう? お前とて魔法の一つや二つ、使えないのか!?」
 が、その思考は、彼の言葉で一瞬にして霧散した。
 魔法、そうだ。魔法だ。
「使え、ません」
「本当に何も使えないのか? ほれ、手から小さな火を出す程度でもいいぞ」
「使えません!」
 自分でも驚くほど大きな声が、アンの口から出た。
 良はおろか、舞とキクまで自分を唖然とした顔で見ている。
「その、すみません。本当に、使えないんです。私の世界には、魔力に反応して動く耕作用の機械もありますが、それも使えません。私には、魔法を使う力が一切無いんです」
 小声で、言い訳か、もしくは懺悔をするような調子でアンは語った。
 むしろ彼女の世界では、機械と言えば魔力を動力にして動く物だ。アンはそれらをまるで動かす事ができなかった。
 何故なら……。
 全て吐き出してしまえ、心の中で誰か呟いている。
「その、それは珍しい事なのか?」
「少なくとも、私の村にはいません……」
「で、でもほら、魔法が使えないぐらいなら気にすることないんじゃないかな。別に機械が動かせなくても他にできることは……」
「昨日、言いましたよね、お姉ちゃんの話」
「あ、あぁ、冒険者の姉の話か?」
「冒険者の、人間の皮膚が固くなるのも、ラーナ……魔力のおかげなんです。魔力を取り込んだ人間は、力も強くなりますし病気にも強くなります。一般人でも、仕事や遊びでも体を動かせば、ある程度魔力が体に取り込まれます」
 ちなみに、硬くなると言っても鉱石のように弾力が無くなる訳ではありません。むしろツヤは増します。そうアンは補足した。
 そう、魔力を体に取り込むことは良い事尽くめなのだ。
 それなのに自分は……。
「でも、私には魔力孔っていう、魔力を取り込む器官自体が無いんです。だから、仕事も人の半分しかこなせなくて役立たずでしたし、子供に受け継がれる事を恐れて、もらってくれる人もいませんでした。普通の人より肌を守る力も無いから肌だって汚いし、凹凸だって少ないし」
 言い出すと、自分でもその口が止められなかった。おかげで、言わなくて良い事まで次々と口から出てしまう。
 良はアンを一般人だ一般人だと言っていたが、自分はそれ以下なのだ。
 ……部屋に、沈黙が落ちた。
「アンお姉ちゃんの体、キレイだったと思うけどな」
 そんな中、ふと舞が呟いた。
「そんな、嘘ですよ……」
 魔力が無い自分の体が、そんな風に褒められる物のはずがない。アンの口元に、自嘲の笑みが浮かぶ。
 そんな彼女の瞳を、舞がじっと見た。アンも思わず彼女の顔を見る。
「じゃぁアンお姉ちゃんは、私のこと汚いって思う? 私も多分魔力穴だかは無いと思うけど」
「そ、そんなことありません! 舞ちゃんは、その、可愛いと思います」
 舞の問いかけを、アンは勢いこんで否定した。そんな訳はない。彼女はアンから見ても魅力的な女の子である。
 その返事を聞き、舞は満足げに大きく頷いた。
「うん、私も、魔力なんてなくてもアンお姉ちゃんのこと、キレイだし可愛いと思う。それじゃダメかな?」
 そうして、首を傾げて再度問いかける。その言葉が、アンの心にすっと染みこんだ。
「いえ、ダメじゃ……無いです」
 アンが答えると、二人は同時に微笑んだ。
「お兄ちゃんだってそう思うよね」
 何か気まずそうにしている良に、舞が話を振る。
 良はそれに対し、うっと唸ってから、あらぬ方向を見つつ口を開いた。
「ふん、お前がどう言おうが、俺にとってはお前なんてそこら辺の人間と同じ一般人だ。少しぐらい違うからと言って調子に乗るなよ。というかそんな些細なことより自分の思考のポンコツさに悩め」
 それを見、舞は苦笑しながらアンに告げる。 
「ほら、お兄ちゃんも『俺にとって君が大事な女の子だという事には変わりないさ。少しぐらい違うからって何さ。そんな事より君の優しさにカンパイ』って言ってるよ」
「あ、そういう意味だったんですか?」
「言ってねぇよ!」
 何だ、違うのか。何だか妙にがっかりし、アンが肩を落とすと。
「その、お前がどう受け取ろうが、それは勝手だが……」
 彼は、目線を逸らしたまま、語尾を曖昧に濁しつつそう言った。
「ふふ、じゃぁありがとうございます」
 ならば思い切り良いほうに受け取っておこう。
 そう決めて、アンは良に礼を言った。
 やっぱり、ここの人たちは優しい。
 魔法で使えない事に悩み、色んな事を試してきたのが馬鹿らしく思えてくる。
 それを思い出し、ふと、アンの脳裏によぎった事があった。
「あの、それで思い出したんですけど、もしかしたらお二人にも魔法を使う方法があるかもしれません」
「なんだと!?」
「お兄ちゃん……現金過ぎ」
 身を乗り出した良の裾を、恥ずかしそうに舞が引っ張る。
 それに苦笑してから、アンは説明を始めた。
「多分この世界の人にも、魔力孔はあると思うんです。あるけど、使ってない所為で凄く小さくなってるか、魔力塵って言う埃みたいなものが詰まってるんだと思います」
 話している最中、良は自らの腕を裏返したりしながらじっくりと見、舞は嫌そうに腕の埃を払うような仕草をした。
 そんな事をしても見えたり払えたりはしないのだが、それに苦笑しながらアンは解説を続ける。
「それを解消する、魔力孔開放運動っていうものがあるんです。本来は魔力孔が広がりきっていない子供や、魔力孔が弱ってきたりさっき言った魔力塵が詰まったお年寄りがやるものなんですけど」
「……ラジオ体操みたいなものか?」
「名前を聞くとデモとか集会とかしそうだけどね」
 アンの講釈に、兄妹が顔を見合わせ交互に何か言っている。
 ひとまずそれは放っておき、アンはそれを続けた。
「用途毎に運動の方法は違うので、お二人には効果が無いかもしれません。それでも良いですか?」
「あぁ、可能性があるならそれで構わない」
「私もおっけーだよ」
 揃って頷く二人。
 やはり自分も覚悟を決めざるをえないようだ。アンは大きく息を吸った。
「では、始める前に一つ注意をします。魔力孔解放運動はある意味神聖な魔法儀式です。途中で疑問、質問があっても絶対に口を挟まないでください。絶対ですよ!」
 そして、腰に手を当て、二人に強く警告した。
「あ、あぁ、分かった」
「お、おっけー……」
 気圧された様子で首を縦に振る二人。それを見、アンは自らも大きく頷く。
 そうして、二人を立たせ、三人で居間の中央に立ち、彼女は体操を開始した。
「えーと、まずは腕立て伏せをしまーす。辛い人は膝をついてください」
 言うと、二人が揃ってえ? という顔をしたが、アンが率先して始めるとそれについてくる。十回を越えた辺りで舞が、二十回を越えると良も膝をつきだしたので、二人とも体力は無い方なのかもしれない。三十回を越えた辺りで、アンは別の体操に切り替える。
「次は、胸の前で手を合わせて、十秒ほど押し合いまーす」
 その際息を吐き、胸の筋肉を意識してという注釈も忘れない。
「右腕を持ち上げて、その、右の胸を左手で持ち上げます。反対側も同じように」
 少々恥ずかしいが実践して見せると、良が一瞬固まるが舞に小突かれ真似をする。
「脇の下から、ち、乳房までお肉を集めて、寄せます」
「なぁ、これって……」
 言いかけた良を、アンが睨む。それに押され、良は再び口をつぐんだ。
「乳房をゆっくり揉みます!」
 良が黙るのを確認すると、アンはやけくそ気味にそう宣言した。
 そうしてから、自らの乳房に手を当て、おずおずと動かしだす。
 兄妹が同じ角度で首を捻りながら、それに従った。
 そうして、それから彼らは二十分ほどその体操を入念に行った。
「しゅ、終了です」
 中盤からは赤面しっぱなしだったアンは、熱い息を吐きながらそう宣言する。
 そのタイミングで、良が彼女に叫んだ。
「バストアップ体操じゃねーか!」
 彼女が行った体操は、あの後に行われた物も含め、全て胸、もしくは胸筋を意識させるものばかりだった。
 流石に良達も気づいたらしい。というか前半に気づいてずっとお預けを喰らっていた所為で、それが言えた今、若干すっきりとした顔をしているぐらいである。
「ち、違います! 魔力孔を開放する効果もあります!」
「もって言ったね、今」
 舞が容赦なく指摘すると、アンはのの字でも書きそうな様子で背中を丸め俯いた。
「だって、この運動を行うと今まで眠っていた魔力孔が胸から花開いて、劇的な魔力の向上とバストアップ効果が望めるって触れ込みだったんですもん……」
「両方得られなかった訳だ……」
「む、胸は少し大きくなりましたもん!」
「昨日はっきりとAだと聞いたぞ」
「お、お兄ちゃん! Aでも十センチの幅があるんだからね! ギリギリAとAAAじゃ全然違うんだから!」
 何故か舞の方から抗議が入り、良はため息をついた。
「はいはい、分かった分かった。しかしこれではやはり、効果は期待できそうにないな」
「そ、そうですよね」
 落胆した様子の良に、アン自身も気持ちが萎えてくる。
 アンも夜な夜な試しては呪文を唱えてみてガッカリしたものだ。
 そんな彼女を横目で見、ふんと鼻を鳴らしてから良が呟いた。
「ま、試してみるだけ試してみるか」
 はっと顔を上げたアンから無理に顔を背けるようにしながら、良は手をプラプラと振った後、前に伸ばした左手首を右手で掴んだ。
「異界に眠る紅蓮の炎よ……」
「え?」
 それから彼は、呪文の詠唱を始める。それは、アンの聞いたことのない詠唱であった。
「我レ魔王也、我ガ契約ニ従イその力を示せ!」
「契約なんていつの間に」
 舞を見るが、こちらは何だか頭痛を我慢しているような表情で、こめかみに手を当てている。
「グレーター・ブレイズ」
 ついに出る。身構えた。
「オブ」
 が、詠唱はまだ続いていたようだ。がくっと体の力が抜ける。
「デスブラックファイヤー!」
 良が吼えた。そしてまるで予定調和のように、沈黙が響いた。
 声をかけようか迷っているアン。呆れた表情の舞。良の足元へと歩み寄り、鼻をピスピスと鳴らすキク。
「イグニッショオオン!」
「あ、往生際が悪い」
 気まずさを誤魔化すように、良が叫んだ。
 しかし、やはり何も起きない。
 呪文は格好良かったですよ。と、アンがとりあえずフォローしようかしらと口を開いた瞬間。
 ゴトリ。と、音がした。
 何事かとアンが周囲を見回していると。
「よっしゃぁぁぁ!!」
 良がガッツポーズを作り、歓声を上げていた。
「え、なに、何が起きたんですか?」
 問いかけると、彼は感極まったのか目頭を押さえながら、先程まで掌を向けていた机の上を指差した。
 そこにはペットボトルと言ったか透明な容器が一本。それが倒れて中身がトクトクと零れていた。
「た、大変。良さんこれ倒れちゃってますよ! 雑巾雑巾!」
「違う! 倒れたのではなく俺が倒したのだ! この魔法で!」
「え、魔法?」
 聞き返しながら、とりあえずペットボトルを立て直そうと手を触れる。
「ひぅっ!?」
 そこで、アンは異変に気づいた。
「な、なんか今ヌルっとしました!」
 ペットボトルの底に、何やら半透明のヌルッとしたゲルがこびりついていたのだ。
「フハハハ! つまりその液体は、摩擦係数を限りなくゼロにするほどの強力なグリースなのだ! しかも物体と物体の間に割り込ませることができる! それが机の僅かな傾きに反応し、その安定性の高いペットボトルを事もなく倒れさせたのだ!」
「呪文名から察するに間違いなく意図した魔法じゃないのに、よくそこまで解説できるねお兄ちゃん」
 ていうかペットボトルの蓋開けっ放しにして置かないでよ。などと文句を言いつつ舞が机を覗き込む。
「うっわぁ、何か気持ち悪ぅい。えーと……ペロリ。何だろこれ、甘苦いね」
「フハハハハハ! この魔法はゼロリバースと名づけるかゼログリップと名づけよう!」
 気持ち悪いと評した物を平然と指で掬い舐める妹と、今使った魔法に早速名前をつけ始める兄。
 なんだろうこの兄妹。自分ってさっきこの人達の言葉で感動したはずよね。
 ペットボトルを流し台にもって行きながら、アンは何だか涙が出そうになった。
「よぅし、我が妹よお前も何かやってみろ!」
「アイサー」
「使いたい魔法を強くイメージするのだ! すると!」
「違う魔法が出るんでしょ? どうすればいいのかな、アンお姉ちゃん」
 すっかり魔法の講師気取りの良を無視し、アンに尋ねる舞。
「え、えーと、目標を見つめて集中しつつ、深くゆっくり魔力孔で呼吸するような感覚を持ちながら、落ち着いて出すと良いらしいです」
 いいのかなと思いながらも、アンは姉に聞きかじった知識を、彼女に教えた。
「分かった、やってみる」
 頷くと、舞は数回深呼吸をした後、良しと呟いて呪文を唱え始めた。
「異界に眠る紅蓮の炎よ……」
「おい!」
 詠唱をそのまま使われた良が、抗議の声を上げる。
 しかし、アンには見えた。舞の周囲に懐かしいラーナの淡い緑光が浮かび上がるのを。
 そうか。この世界のラーナはあちらよりずっと薄いのだ。それが集まるとこうやって目に見えるようになって……。
「良さん伏せて!」
「へ?」
 嫌な予感がし、アンは自らもしゃがみながら良に叫んだ。
 同時に、舞の魔法が完成する。
「デスファイヤー!」
 ボン! 叫びと共に、良と舞達の中間辺りに火の球が出現した。アンが両手でやっと抱えられるほどの大きさで、表面を火の粉が踊っている。
「で、出たぁ!」
 一番驚いているのは、出した張本人である舞であった。彼女が慌てて体を捻ると、それに合わせて中空の火球が踊る。
「ば、バカ何出してんだ! 早く仕舞え!」
「し、しまうってどうやって!?」
 頭を抱え伏せた良が舞に叫ぶ。しかし彼女自身も混乱し、どうして良いか分からないようだ。
「良さん、キクちゃんを近づけてください!」
「え、あ、わ、分かった!」
 アンの声に、良が頷く。
 彼は隣で自分の真似をし伏せていたキクを拾い上げ、火球に投げつけた。
 途端。
 パァン! と音がして、火球が弾け飛ぶ。
 飛んできたキクを慌ててキャッチするアン。
 ドラゴンの持つ、自らを傷つける魔法を無力化する特殊能力の効果である。
 しかし自分は近づけろと言っただけなのに、躊躇いなく炎の中に投げ入れるとは。
 やはりこの男、天性の魔王なんじゃないかしら。
 アンは腕の中にいるキクと顔を見合わせる。
「やったー! 魔法使えたー!」
 舞が嬉しそうに部屋中を飛び跳ねた。
「今のは使えたとは言わんだろ!」
「でもお兄ちゃんと違って、思った魔法出せたもんねー」
「んだと!? あれは詠唱フェイントと言う高度なテクで……」
「あ、お兄ちゃんそこ燃え移ってる」
「のわーーー!」
 それに食って掛かる良が、彼女の指摘でカーペットに燃え移った火を必死で消す。
 異世界人に、自分には使う事のできない魔法を使われた。
 彼らに教える前、それはもっとショックな事だと思っていた。
 しかし今、魔法を使えてはしゃぐ彼らを見ても、アンの胸には思ったほどの嫉妬も憂鬱も沸いては来ない。
 何故だろう。考えてはみたが、明確な答えは浮かばなかった。
「この家って、本当に壊れてばかりですね」
「大元の原因のお前が言うな!」
 まぁいいか。楽しいし。
 魔王に魔法を教えてしまったというのに、アンの胸には爽やかな気持ちが広がっていた。

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