ドラポン 第四章 その3
「侵入者がいたようです」
翌日、暗黒騎士ガッデオの言葉に、我は身体をびくりと竦めた。
謁見の間の、玉座の上での出来事である。普段はお飾りであるはずの朝の報告であったが、その日は違った。
「……由々しき事態ですね。それで、その者は?」
姫様が魔王の娘らしい、威厳と冷たさを感じさせる声で、報告をしてきたガッデオに尋ねる。
「申し訳ありません。相手は高い隠密能力を持っており、なおかつ遠視水晶の妨害も可能なようでして……」
かの者が報告しているのは、おそらく我が姉さんである。
しかし姉さんにそんな真似ができるものだろうか。もしかして、他に協力者が……。
「ポン太郎さんとの結婚式も近いというのに……」
我がそんな事を考えていると、その横で姫様がこぼす。
お互いの事を知らない頃も含めれば、婚約状態の我らであったが、来週の頭、ついに正式に結婚する事になった。
「まぁ、形だけですがね」
とは言え、それで我の待遇が変わる訳ではない。
誓いのキスもおでこにすると、姫様からは通達済みである。
別にその恨みという訳ではないが、口調は自然と皮肉げになった。
「ええ、形だけですが盛大に行いましょう!」
だが姫は我の不遜な態度をとがめる事もなく、逆に勢い込んで同意される。
その態度に、我はまた謎の憂鬱に襲われた。
何なのだろう、この気持ちは。
「……お義母様にも、文を出しておきましたから」
我が自らの心も分からず動揺していると、姫様が独り言のように呟く。
彼女の言葉に、我の心臓がどきりと跳ねた。
母上。そして姉上達は、今何をしているのだろう。いや、そもそも我はあの方々を姉と呼んで良いのか?
しかし、では、他に何と呼ぶのだ。いや、これからの一生、呼ぶ機会など無いかもしれないが……。
「あの、ポン太郎さん?」
黙りこんだ我に、姫様が探るような声を出す。
だが、我が返事をするより先に、もっと前から無視される形となっていたガッデオが報告を再開した。
「周辺の警備も更に厳重にいたしました。これなら流石に侵入など試みる輩は……」
そんな時である――。
ドカァン!
場内を揺らす衝撃と共に、破砕音が響いた。
プオーー! プオオーー! と、ほぼ同時に、城内に喇叭の音が鳴り響く。
何事かと我が左右を見回していると、姫様が「警報です」と答えた。
「な、何事か!?」
ガッデオが叫ぶと、それを待っていたかのように二足歩行の犬のような魔物、小コボルドたちが次々と謁見室へと入ってくる。
「しょ、正体不明の巨大な魔物が正門に着弾!」
「着弾!?」
「魔物は現在正門を攻撃中! 応戦していますがまるで歯が立ちません!」
「正体不明とは何だ!? 報告は正確にしろ!」
ガッデオが叫ぶと、魔物たちはお互い顔を見合わせた後口々に喋りだした。
「きょ、巨大なヤギです!」
「いや、あれはライオンだった!」
「タコだ! タコタコ!」
「なんだそれは!?」
てんでバラバラの報告をする部下達に、ガッデオが悲鳴を上げる。
「姉上だ……」
混乱する魔王軍を他所に、我は呟いた。
ヤギにもライオンにもタコにも、そしてドラゴンにも見える生物など、我が姉上、ユマ・ザ・ドラゴン以外に思いつかない。
フウ姉さんに続いて、姉上まで我に会いに来たというのか。
いや、会いに来たなどという言い方は、このやり方に対して生ぬるすぎる。
第一、姉上は他の生き物の前で正体を晒すことを嫌がっていた。
その彼女が、体を衆目に晒して暴れているのは何故だ。
「ダメです! 触手が多すぎて近づけません!」
「切っても切っても再生します!」
「火にかけようとしたら逆に氷と雷と悪臭のブレスを吐かれました!」
「いちいち報告せんで良い! とっとと戦ってこい!」
彼女はきっと、伝えようとしているのだ。我に、胸を張れと。どんな姿をしていても、誰に憚る事などないと……。
あの日、湖で我に伝えた事を、もう一度。
「と、とにかく増援をまわせ! 数で押すのだ!」
我がそんな事を考え、何故だか起こる身体の震えに戸惑っている間にも、事態は急速に進んでいく。
ガッデオの指示を受けた魔物たちが伝令管に増援を要請した。
「ダメです! 待機中の部隊と連絡が取れません!」
だが、応答は帰ってこないようで、すぐにその旨をガッデオに返す。
「クソッ、何をやっているのだ! 水晶球を出せ! 魔法使いに遠視をさせろ!」
ガッデオが叫び、部下の犬人達を怒鳴りつける。
するとガッデオの指示に従い、謁見の間に水晶とローブを着た老婆が台車で運び込まれた。
老婆は謁見の間中央に配置されると、水晶の前でうにゃうにゃと呪文を唱え始める。
だが、彼女が魔法をかける前に、水晶球が輝き始めた。
水晶から溢れた光が玉座の反対側、入り口扉の上辺りに収束し、やがて像を結ぶ。そしてそこに、女性の顔がでかでかと現れた。
「あ、あれは……」
我が呟くのと同時に、壁面から声が響く。
『ア、ア、アー。 えーと、これって聞こえてるのかな?』
妙にのんびりした口調に、あの麗しい黒髪。それは紛れもなく我が姉様。ミュッケ・ザ・ドラゴンであった。
彼女はしばらく水晶のテストをしていたが、やがてコホンと咳をすると、水晶から顔を離して喋りだす。
どうやらあちらから、謁見の間の情報は伝わらないらしい。
『えーと、待機中の方々は魅了の魔法でメロメロにしちゃいました』
姉様が退くと、そこには布の少ない衣服を着、蝙蝠のような羽を生やした少女達がずらりと正座している。
確かあれは、魔王軍サキュバス部隊だ。
そうして、部屋の隅にはフウ姉さんが成獣の形態で寝転がっていた。
ミュッケ姉様をあそこまで運んだのは、彼女の力であろう。
きっと姉さんが我の居場所を伝え、彼女らを連れてきたのだ。
いつも独りで、皆に馴染めないと言っていたフウ姉さんが。
『ていうか魔法が利きすぎちゃって困ってます。相性が、良いのかな?』
姉様が右に行けばそちらへ、左に行けばそちらへ。水晶の前を姉様のお尻が横切るたび、サキュバス達の潤んだ視線も同じように動く。
人間を魅了することが仕事のサキュバスたちをここまで篭絡できるというのは、相性が良いなんて程度では済まされないのではないだろうか。
姉様はそうしてから水晶の前へ戻ってくると、目を閉じゆっくりと深呼吸をし、真面目な表情で水晶球越しの我へと静かに語りかけた。
『こういう暴力に訴えるやり方を、ポンちゃんは嫌がるかもしれません。でも、ポンちゃんに分かって欲しかったの。わたしたちがあなたの事をどれだけ大事に思っているか。貴方の為にだったら何だって敵に回すってことを』
彼女の言葉を聞き、我の体からは震えが止まらなかった。
そんな、我の、こんなちっぽけな一匹のたぬきの為に魔王城に、いや、ひいては魔物全体を喧嘩を売るだなんて。無茶苦茶である。
割に合うはずがない。我に、そんな価値は……。
我の思いを知ってか知らずか、姉様はふっと笑う。
『あ、安心してください。ユマちゃんにも、なるべく怪我人は出さないようにお願いしているので』
「違うでしょう!」
相手には聞こえないというのに、我は思わず叫んでしまった。
だって、そうではないだろう! そんなものより自分達の身を大切にしていただきたい!
叫んだ我を、姫様がびっくりした顔で見る。その視線にはっと我に返った。だが、そのまま玉座に座り直す気にはなれない。
その間にも、姉様がぽつぽつと話している。
『あのね、ポンちゃん。縁側で、お母さんの事話したよね。お母さんがたぬきでも、血が繋がっていなくても、家族だって思ってるって。ポンちゃんも一緒だよ。私はポンちゃんが何者でも、家族だって思ってる』
彼女の話を聞いているうちに、我の体に姉様の膝の感触が蘇ってきた。
あぁ、そうだ。姉様はそう言うだろう。きっと、そういってくださる方だと、我にも分かっていた。
でも、でもダメなのです姉様。我には、我には姉様達の隣にいる資格など……。
映像の隅では、フウ姉さんも体を起こし、じっとこちらを見つめている。
『言ったよね。家族が離れ離れになるのはもう嫌だって。だからお姉ちゃん、ポンちゃんを取り返すためなら何でもします。ポンちゃんの意思だって無視しちゃいます』
「姉、様……」
普段柔らかな、姉様の強い言葉。この方は、この方々は、本当に強い。
こんな風に、不貞腐れて、怖がってばかりいる我よりも、ずっと。
本当に、我などがその末席に加えていただいて良いのだろうか。
我が、そんな事を考えていると、ふと、水晶の視点がぐるりと上を向いた。
姉様が、あちら側の水晶を抱きかかえたらしい。
同時に、ぴちゃんと水音がし、水晶の映像が乱れた。
ぽつ、ぽつと、水滴が水晶に落ち、姉様の姿が見えなくなる。
『ってきて……』
それから、小さな声が広間に響いた。
姉様の声は、小さくて、それでもよく響くのだ。
『だからポンちゃん……帰ってきて。お姉ちゃんには、ポンちゃんが必要なんです』
そんな、夜の、耳に痛い静寂のような姉様の言葉が、我の耳を打った。
我は、唖然とするしかない。
さっき、言っていたではないですか。我の意思など無視して、強引に取り返すと。
何故、我に頼んだりするのです。そんな、そんな風に泣いたりして。
胸が痛い。胸の奥が、我に訴えかけているのだ。
我にはやるべき事があると。
それは何か。我には分かっている。
『うわーん! お姉さまー!』
『わ、ちょ、ちょっと!』
背後から急に黄色い声がし、姉様が慌てた声を出した。
どんと音がして、水晶が宙に放り投げられる。
最後に映ったのは、サキュバスの一人が泣きながら姉様の腰に体当たりする映像であった。
ガシャンという音と共に、映像が唐突に途切れる。
そうして、何も映らなくなった室内に、何とも言えぬ沈黙が落ちた。
姉様は、まぁ多分、命の心配はないだろう。
……それより泣いていた。あの、いつもにこやかな姉様が。
姫様が我を見、何事か言おうと口を開きかけた。その時。
「アンギャーーーーーーーーーーーーーー!!」
と、建物を揺らすほどの大きな咆哮が響いた。
思わずバランスを崩し、我は玉座の上に尻餅をついた。
あぁ、やはりお前もきていたのか。我はその叫びを、ひどく懐かしい気分で聞く。
そしてすぐに、新たな魔物が謁見の間に転がり込んできた。
「中庭にドラゴン!」
簡素極まりない報告。しかしそれだけで脅威は伝わる。
「ええい、迎撃しろ!」
「「「「はーーーい!」」」」
「お、おい! 全員で行くな!」
ガッデオの号令と共に、部屋に集まった魔物たちが一斉に出て行く。
部屋に残ったのは、我と姫様とガッデオのみとなった。いや、更にもう一人、台車で運ばれてきた老婆が取り残されている。
「おい、中庭を映せ」
ガッデオが彼女に指示すると、老婆はむにゃむにゃと水晶に呪文を唱えた。すると、先程と同じように壁に映像が現れる。
映ったのは、金色のドラゴン。それが中庭いっぱいの魔物達に囲まれているところを、水晶はやや上からの視点で映している。
間違いない。あれはアグノ・ザ・ドラゴン。父の血を一番濃く受け継いだ存在である。
ドラゴン……我がずっと憧れ、諦めてきた生き物。金色の竜。我が妹。
お前は、我に何と言いたいのだろう。立派なドラゴンになるという約束を果たせず、それまでも、ずっと期待を裏切り続けてきた我に。なんと……。
「あーにーうえーーーー!!」
懐かしい響きの呼び名。その呼び名を聞いたのは、何年ぶりになるだろうか。その叫びが水晶からだけでなく、直接謁見の間を再び揺らす。
あぁ、彼女もまだ我を兄と呼んでくれるのか。顔中から溢れ出しそうなものを、我が必死で押さえつけていると。
「この大馬鹿者! 底なしの阿呆! ころころ毛玉!」
続いて容赦ない罵倒が殺到し、我から出かかったものをすべて引っ込める。
「くだらんことで悩みよって!」
ボォォ! と魔物たちの足下に炎を吐くアグノ。それで彼女を囲んでいる魔物たちが一歩引く。
「そちはいつもそうじゃ! 火が吐けないから、飛べないからと言ってわらわに遠慮して、人間にヘコヘコして!」
思えば、我は気づいていた。自らにドラゴンの遺伝子など無いことに。
だから諦めて、妹がドラゴンらしさを発揮する事を喜び、それで満足しようとしていた。
「どうせ今回もそうじゃろう! 自分が火が吹けないと知って、ドラゴンでないと分かって! それでわらわががっかりするとでも思ったんじゃろう! 見損なうな!」
それでも挑みかかってきた魔物を、アグノは爪ですくってぽいぽいと中空へと投げながら、叫ぶ。
……確かに我は、アグノにはがっかりされると思っていた。
だって、お前は我がドラゴンらしくないとあんなに怒っていたではないか。我が炎を吐いたとき、あんなに喜んでくれたではないか。
「最初からそんな期待、そちにしておらぬわ! わらわがそちに怒るのも、きつく当たってしまうのも、薬を探してきたのも、そちに火を吐いてもらう為ではない! 空を飛んでもらうためでもない! うろこを生やしてもらう為でもない!」
アグノが爪を振るうたび、魔物たちがポイポイと吹っ飛んでいく。
そして傍目には何を言っているのかすら分からない彼女の発言が不気味さを醸し出すのか、包囲網はどんどん広がっていった。
「わらわが、わらわが怒るのは、そちが自分の心を殺して納得しようとするからじゃ……わらわが喜んだのは、そちが喜んだからじゃ……」
魔物たちが完全に隙を伺う姿勢になる中、アグノは呟く。
「……そちがわらわを、姉上達を庇うのが、何よりの証拠ではないか」
アグノが何を言わんとしているのか、我にも分からない。
だが、彼女が叫ぶ度、呟くたび、心がざわつく。
「何故、気づかんのじゃ。そちは、そちは……」
長い首を、ゆっくりと下げるアグノ。姿は大きなドラゴンであるというのに、我にはまるで、今のアグノが人間形態の時よりも小さく見える。
周囲の魔物達もそう思ったのだろう。じわりじわりと包囲を縮めていく。
しかし次の瞬間。アグノは偶然か魔法の力を感じ取ったのか。水晶に視線を合わせ叫んだ。
「そちはドラゴンじゃろうが!」
そうして、彼女は一斉に攻撃をしかけてきた魔物たちを迎え撃つ。
意識が謁見の間へと戻ってきた我に、自らの耳がドクドクと脈打つ音を妙に大きく聞こえた。
……我が、ドラゴン?
「ハハハ! 何を言っているのだあのドラゴンは! こんな奴、どう見てもたぬきだろうが!」
ガッデオが、妹の言葉を嗤う。その言葉にふつふつと血がたぎり、それを抑えようとして、我はやっと気づいた。
我は、ずっと逃げていた。どう見てもたぬきである自らの体に引っ張られ、こんな者がドラゴンであるはずがないと、決め付けていた。
その奥にある、自らの意地や、こだわりを、不相応なものだと封じ込めようとしてきた。
しかしそれでも、その衝動は抑えきれず、何度も反省してきた。
ユマ姉上は湖で言った。憚ることはないと。心のままに生きろと。
ミュッケ姉様は庭で言った。本能は、抑えきれないと。
フウ姉さんは我に言ってくれた。一番大切な存在だと。
アグノは今、叫んだ。我は、ドラゴンだと。
そうだ。我は……我こそは。
「婚約は、無かったことにしてください」
我は玉座から立ち上がり、姫を見た。
「え……」
「我はやはり、ドラゴンなのです。誰に言われようと」
「でも、ポン太郎さん。それは……」
皆まで言うなと、我は姫様に首を振った。
「我はカリカリよりきつね亭のそばが好きですし、たぬきの娘より姫様のようなお方のほうが好みなのです」
我はきっと、たぬきに混じって、たぬきらしくは暮らせないであろう。
たぬきを下に見ている訳ではない。我らをたった一匹で育ててくれた、そして我を命がけで庇ってくれた母上を、我は尊敬している。
それでも、それでもである。
「例え外見が、そして我の血の一滴までもがたぬきであったとしても」
我は胸の上にそっと前足を置いた。
「我の、この心だけはドラゴンなのです」
言い切った時、我の心がスッと軽くなる。それはこの数年来にすらない。とても晴れ晴れとした気分だった。
良いのか? 心の端っこが問いかけてくるが、良いのだ! と大声で返す。
あんなに素敵で、強い方々に我はそれを認められているのだ。
そして、必要としてもらっている。
しかし、それに甘えるだけではいけない。我が、我自身が己にそれを証明しなければならないのだ。
「だからあなたとは暮らせません。ごめんなさい」
彼女にそう告げ、我は椅子から飛び降りた。
「ぽ、ポン太郎さん、待っ……」
「貴様ァ! 姫様に恥をかかせて生きて帰れると思っているのか!」
姫の制止が聞こえる。しかしそれを、大きな怒声がかき消した。声の主、怒れるガッデオが扉へ向かう我の前に立ちふさがった。
しかし今の我に、彼の者を恐れる気持ちは無い。
「退きたまえ」
我は二足歩行になり、静かに告げた。
暗黒騎士はそれを鼻で笑う。退く気は無いようだ。
しかしそれで良い。我の可愛い可愛い妹を嗤ったやつを、我は一発もかまさず逃す気はない。
我らは互いに無言のまま、距離にして三メートルほどまで近づいた。
一瞬の空白。そしてガッデオがごうっとまるで突風のように突進してくる。我はそんな奴の前でくるりと体を回転させた。
前回のように尻尾を変化させると思ったのだろう。奴の腕が自らの頭を庇おうとする。
ここから変化によって軌道を変えたとしても、奴の体はそれよりも早く動き、我の攻撃を打ち払うだろう。しかし――。
変化よりも早く。奴の動きよりも早く。ただ目の前の男を倒すことだけを念じ、我は『それ』を解き放った。
ぎゅお! っと、室内に風が舞う。
「うごぉ!」
我の放ったそれが、ガッデオの体を吹っ飛ばした。
ガァン! と、盛大な音を立てて吹っ飛んだ鎧が壁に当たりバラバラに散らばる。
カランと音がして、だるま落としのように、兜だけが我の目の前に落ちた。
「な、なんだ今の速さは……そして、これは」
残った頭が驚愕に震えている。フンと息を吐くと我はそやつを見下ろした。
しかし奴の視線は我の顔ではなく、自らの目の前にある物体に注がれている。
長大なそれは、奴の目の前から、我の下半身へと続いていた。
――それは、我の玉袋。つまりキンタマである。全長はおよそ五メートル。一つの玉が我自身より大きな規格外の品であった。
「今のは変化ではなく、元々していた変化を解いただけだ」
唖然とする奴に、我は説明してやった。
我と、たぬきの娘との見合いを覚えているだろうか。あの娘はたぬきの姿のまま、自らの体を理想的な物へと変化させていた。
我も同じである。我の普段しているたぬき姿は、本来のものではなく一部だけを日常的に変化させているものであった。
その変化させていた部分こそが、母上が常々嘆いていたこの玉袋である。
姉上が裏庭で言った我の正体とは、これの事であった。
……我のこの体は、もうとっくに大人になっていた。それも、他のたぬきよりずっと大きくである。
我がこの場所の大きさを偽っていたのは、移動に邪魔だとか、姉様達に甘えにくくなるという理由もあった。
しかし一番大きな理由は、間違いの無いたぬきの証を、自らが受け入れ切れなかった所為である。
確実にたぬきへと成長する自らの体を、我は認められなかったのだ。
だが今は違う。自らの体がどれだけたぬきでも、たぬき以外の何者でもなくとも心はそうではないと、それだけではないと固く信じられる。
「そ、そんな、バカ……な」
体がバラバラになった影響か。ガッデオは白目を剥いて気絶した。
この男は我が変化するスピードには追いつけても、変化を解くスピードにはついてこられない。
それは最初の戦いの時、この男が変化を急遽解いた我に対して攻撃を当てられなかったことで、証明されていた。
我は男の気絶を確認すると、ゆっくりと後ろを向いた。
姫は、腕を伸ばしかけたままの姿勢で、何が起こったのか分からないという風に唖然としている。
「それでは」
しかし我が短い別れの挨拶を告げると、びくっと体を震わせ、泣きそうな表情になる。
だが、それからもう少し経つと、手を引っ込め、一度頷いてから微笑んでくれた。
そんな姫にぺこりと頭を下げ、我は玉袋を引きずって部屋から飛び出した。
我が愛しき、家族の元へと。
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