ドラポン 第二章 その11


 なじみの森へと帰ってきた我は、姉さんと話すべく全力で我が家へと走っていた。
 見合い自体はすぐに終わったが、移動にかかった時間のせいでそろそろ夕暮れが迫ってきている。
 急がねばと四足の足を全力で動かす我――だったが、途中で視界の隅に映る物があって、急制動をかけた。
「お、っと、うわっ!」
 が、貧弱な爪のせいできちんと止まることが出来ず、くるりんと体を一回転させてしまう。
 尻がぽよんと地面を跳ね返し、無事に軟着陸した我は、改めて意識の端に引っかかったそれが何なのか確かめた。
 すると、でたらめに成長した林。その先に山の景観が見渡せる崖があり、その先に淡い光を放つ獣が鎮座していた。
 何となく神秘的な雰囲気を感じて、我はそぉっとそちらに近づく。
 彼女の毛皮は、僅かな光をも反射するようなまばゆい真白と、どんなに強い光をも吸い込む真黒でできていた。
 前肢をそろえ、背筋を伸ばす凛々しい姿勢。くっきりと白黒のついた尻尾の美しさは、我の物とは比べるべくも無い。
 体長は我の四倍ほど。すらりと伸びた四肢。毛皮の下から覗く腱は、彼女の肉のしなやかさ、勇壮さを想起させる。
 漆黒の羽を畳み、森とまっすぐに向かい合う後姿は、まるで彼女がこの森の守護者であるかのようであった。
「フウ姉さん」
 声をかけるのも畏れ多いような光景である。しかし我はその獣――成獣形態に変化しているフウ姉さんに声をかけた。
 するとピクリ、と彼女の耳が揺れる。
 振り返ったフウ姉さんの目は、驚きに見開かれていた。
 今の状態の姉さんは、森の端から端までの音が聞き取れるほど、五感が進化している。
 なのに派手な音を立てた我にすら気づけないとは、姉さんはよほど考え込んでいたらしい。
 何か悩み事があるのだろうか。
「お見合いはどうしたの?」
 入れ替わりに思索の世界へと入りかけた我に、こちらを向いたフウ姉さんが問いかける。
「い、いえ、その……」
 しかし姉さんが心配で帰ってきました。などと言うのはばかられる。
 悩み事があるのではというのは我の憶測に過ぎないし、姉さんがそれを喜ぶとも思えないからだ。
「やはり我は、たぬきの風習というものに馴染めないようでして」
 仕方なく我は、あの場から飛び出したもう一つの理由を答えることにした。
 姉さんの事が気にかかったのは事実だが、あれ以上見合いに付き合いたくなかったのもまた事実である。
 我がそう答えると姉さんは。
「そう……」
 と息を吐きながら呟いた。
 呆れているのだろうか。見た目はどうみてもたぬきである我がこんな事を言うので。
 我がおどおどとしていると、姉さんはそのまま口を閉ざし、沈黙してしまった。
 その為更に動揺する我。つむじの上から汗が勢い良く噴出しそうな気分である。
「あ、あの、フウ姉さん!」
「何?」
「独り立ちするとは、本当ですか!?」
 その空気に耐えかねた我は、結局姉さんにそう尋ねてしまった。
 我の問いに姉さんは、しばらくの間無表情に沈黙を保っていた。
 またもおとずれた静寂な空間に、我はつむじから汗をぴゅぴゅぴゅぅと噴出させる。
 だが、そんな我が更に言葉を足そうかと口を開きかけたところで、フウ姉さんは短く答える。
「本当だよ」
「な、なぜ急に!?」
 森で暮らせなくなってしまったグランゼ姉さんはともかく、フウ姉さんにこの森を出る理由は無いはずである。
 混乱した我が問いかけると、姉さんは「別に、急じゃないよ」と前置きして、語り出した。
「ポンと同じ。私は馴染めないの。ここの生活そのものに」
「どういう、ことですか?」
 彼女の話し様に、なにやら不穏な物を感じる。
 我が慎重に尋ねると、姉さんはそっぽを向いて話し出した。
「皆とは物の食べ方も、話す話題も違うしね。いい加減窮屈だなって」
 体に、稲妻のような衝撃が走った。ぐらりと視界が歪みかけ、我は慌ててそれを堪える。
 姉さんが、そんな事を考えていただなんて。我らとの生活を、疎ましく思っていただなんて。
 ずっと暮らしていて、そんなことも分からなかった。
「で、では我と遊んでくださったときも、いつも我慢していたというのですか!?」
 自らの傷口に塩を塗りこむ結果になりかけない質問である。それでも我慢できずに、我は姉上に問いかけた。
 しかし姉上は、我の問いにウンとは答えず、顔を背けたまま呟く。
「ポンは、忙しいじゃない」
「え?」
 姉さんの言葉の意味が分からずに我が聞き返すと、彼女はまるで呪詛のように言葉を並べだした。
「ユマやミュッケもまだまだ世話が焼けるし、アグだってポンにべったり。最近は仕事だってしてるし、お嫁さんも探し始めた」
 普段、そんなに口数が多いほうではない姉さんの発言に混乱する我。すると姉さんは一旦息を切って、ため息のように呟く。
「その内子供だってできて、きっと私になんて構う暇がなくなる」
 姉さんがそう言い出した件になって、我はようやく姉さんが何を言いたいのか分かり始めた。
「ううん、今だって私の面倒なんて、面倒くさくて見てられないはずだもん。こんな、面倒な姉のことなんて」
「そんなことありません!」
 自分を面倒と連呼するフウ姉さんに、我は慌てて言った。
 だが、姉さんはまるで聞く耳を持たぬようで、項垂れている。
「ポンの迷惑になるぐらいなら、私はこの家を出て行く」
 涙目になった姉さんが、悲壮な決意を滲ませながらそう宣言した。
 それに対し、しばし唖然とする我。姉さんは我のどこに彼女を厭う空気を感じ取り、そして何故こんな結論に至ったのであろう。
 いや、しかし、待て。姉さんが妄想で勝手に盛り上がり暴走を始めたのだと決め付けるのは早い。
 確かにちょっと面倒くさいと思いかけた自らを、我は叱りつけた。
 何はともあれ、姉さんをこんなに不安にさせ、家出まで決意させたのは我に違いない。
 それと、なんだかモヤモヤする。
 自らを責める気持ちと共に、何やら近いうちにあったと思われる、何某かの出来事が、しきりに脳を刺激するのだ。
 考えがまとまらない。まともな主語、述語、形容詞すら出ず、我は頭を抱えた。そもそも、姉さんの言葉による混乱がまだ収まっていない。
 こんな時どうすれば良いのだろう。悩んだ末に我は。
「姉さん。トラポンライダーをしましょう」
 姉さんに、そう提案していた。
 一種の逃避であったが、それが自らと姉さんに必要だと、たぬきだかドラゴンだかの本能が告げていたのだ。
「でも、もう日も暮れるし」
 もちろん、姉さんにとってはもっと唐突に映ったに違いない。自らの覚悟を話したと思ったら、弟はとにかく遊ぼうと言いだしたのだ。
 姉さんは地平線にかかりだした太陽を理由に、我の申し出を断ろうとした。
「構いません。夜になろうが、明日の朝になろうが、仕事の時間になろうが走り続けるのです」
 しかしそんな彼女に、我はぐっと顔を近づけて、我は言い切った。
 口約束ではない。今の我は、本気であった。
「いい、の?」
 それが伝わったのか。姉さんは戸惑いながらもそう確認してきた。
 それはつまり、姉さんもそうやって遊ぶことを望んでいた、という証だ。
 ならば我に引く理由はない。
「我がそうしたいのです。付き合ってくださいますか?」
「うん……」
 我が前足を差し出し微笑みかけると、姉さんも同じように前足を差し出し、肉球どうしを触れ合わせた。
 我らは共に四足歩行であるから、そのまま彼女を引っ張って攫える訳ではない。
 だがそれで、契約は成立した。
 トラポンライダーの始まりである。

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