「Iam Not Heroine――僕らのモラトリアム」

 第一章 「I became Heroine」  その1


 その日、俺は一人しんみりと酒を傾けていた。
 サーフィスというのが俺のいる店の名前であり、淡いブルーの光で満たされた店内はまるで海の底のよう。
 ドラマの撮影に何度か使われた事もあるそうで、入り口が分かり辛いにも関わらず客足も悪くない。
 しかしこの店最大のポイントは、安くてアルコール度数が低い酒が大量に置いてあることだ。
 マスターが昔酔っ払いに酷い目に遭わされた事が原因だそうだが、おかげでこの店には金も無いのに格好をつけたい若きサラリーマンが集まるようになった。
 彼らは誰に言われたわけでもないのに安酒を高級酒のようにゆっくりと傾け、口元にニヒルな笑みを浮かべ、どこかで聞いたような口説き文句を並べている。
 しかし俺はと言うと、少し違う。
 俺は独りだし就職して二年はかろうじて経ったし、第一……。
「なぁんでクビになるかなぁ」
 俺は既に社会人ですらない。
 ため息と共にひんやりとしたカウンターに頬擦りすると、そこに映ったマスターの顔がぐにゃりと歪んだ。
 視界が歪んだせいか本当に嫌な顔をしたのかは判然としないが、どっちにしろ俺が酔っている証左だろう。
 弱い酒だろうが安い酒だろうが、酔いたいと思えば酔えるのが少ない俺の特技だった。
「新井田様、そろそろ……」
 心なしか震えた声で、いかにもバーテンダーですといったチョビ髭のマスターが俺に帰れと告げる。
 名前ぐらいは覚えてもらえるほど、ここの常連になったはずの俺だが、その名前は既にマスターの中で迷惑な客リストに移動されつつある。
 そうか、ここでも俺は邪魔者か。
「昔は違ったんだよマスター。俺結構金持ちの家に生まれてさ。学校にも友達がいてさ。女子にも割とモテてさ」
 俺が吐く息の代わりにそうつらつらと並べると、マスターは芝居がかった仕草でやれやれと首を振る。
 その仕草にイラッときた俺が抗議しようと顔をあげた所で。
 カラン。と隣の席のグラスから、氷が滑る音がやけにはっきりと聞こえた。
 隣に客なんて居たっけ? いや、居はしたが俺の据わった目を見てそそくさと別の席へ移動したはずだ。
 また誰か座り直したのか? などと酔った頭で考えてはいなかったと思うが、とにかく俺はそちらに視線を向けた。
 するとそこには、女が座っていた。
 童顔で小柄だが、長い睫とカッチリとしたスーツとタイトスカートが少女と呼ぶ事は全力で拒否しているような女だ。
 俺はにこやかな年上の女性がタイプなので好みとは外れるはずなのに、不意にあった目が気軽に外せなくなるような、引き寄せる何かが彼女の顔には存在した。
 俺が二、三秒その女の顔を凝視した所で、女が口を開いた。
「仕事をしませんか?」
 唐突な一言だった。
「する仕事が無くなったんだよ」
 皮肉か。思わず女を睨んでしまう。
「ええ、ですから新しく仕事をしませんか?」
「新しく、仕事ぉ?」
 あからさまに胡散臭げな声が出てしまったのは致し方なかろう。
 この就職難の時代に一言目でそんな事を言うのは詐欺かもしくは……詐欺に違いない。
 しかし、俺の視線に女は眉ひとつ動かさない。
「先程からお話を伺っておりましたが、随分おモテになるそうですね」
 代わりにまたしても唐突に話題を切り替えた。
「え、あ、まぁ、モテるって言うか……昔はっていうか……その」
「やはり嘘なのですかこの童貞野郎」
「誰が童貞か! ていうか会って一分の女がする罵倒じゃねぇだろそれ!」
 言いよどんだ俺に、女が冷徹に信じられない言葉を吐いた。というか親しい間柄でもなかなか聞ける罵倒ではない。
「興奮しますか?」
「正直します」
「マスターは黙っててくれ!」
 誤解を与えるタイミングで会話に割り込んできたマスターに一喝。
 するとマスターは男の罵倒では興奮しないようで、シュンとしつつグラス拭きに戻った。
「では初体験の年齢と相手を」
「まだすんのその話!?」
「嘘なのですねこの童て……」
「言う、言うから!」
 ループが始まりそうになったやり取りに、思わず俺はそう言ってしまった。
 え、マジで言うの? 会って三分の女に俺の美しい思い出の一ページを話しちゃうの?
「早く言いなさいこの童……」
「ひょ、ひょう学生の時家庭教師のお姉さんに奪われました!」
 慌てたのと酔っているのが合わさって、妙な部分で噛んでしまう。
 女は俺の告白にフッと鼻から息を吐いてから。
「またまた」
 と手を振った。
「本当だって! 眼鏡に巨乳でおさげのおっとり系お姉さんだったって!」
 信じようとしない女に立ち上がって抗議すると、妙に周囲から視線を感じた。
 先程から大声で騒いでいた訳だし、注目を集めるのも仕方がないとは思うが、その目は全員が全員俺を重度のエロ漫画の読み過ぎだと思っているような冷笑を含んだ物だった。
「ぷふっ」
 あ、マスターの野郎吹き出しやがった。
 周囲全てにこのような反応をされると自分でも疑いたくなってくるが、それは本当にあったことなのだ。
 俺はあの人に純情を捧げ、青春を捧げた。彼女の名前は、そう……ええと。
「よく分かりました。とにかく座ってください」
 女の勧めで、俺はがっくり肩を落としつつ椅子に座り直した。
「一杯どうぞ」
 薦められるままに女が差し出したグラスを一気にあおる。
「そんな貴方にぴったりの仕事があるのです」
「なぁ、あんたの中で今俺はどんな貴方になってるんだ?」
「実は恋愛経験豊富な貴方に、この二人の男女を縁結びしてほしいのです」
「なぁそれ皮肉だよな? 完全に皮肉だよな? ……縁結び?」
 女の言い方がいちいち引っかかり、彼女に顔を近づけ抗議を続けていた俺だが、その酒臭い息をシャットアウトするように、女が俺の目の前に二枚の写真を突きつけた。
 構図は同じ、証明写真のように胸から上を真正面から写したもので、その視線はまっすぐ俺を見ている。
 一人は中学生になるかならないかの少女で、やはり眼鏡巨乳お姉さんが好みの俺としては恋愛対象外だが、その顔は恐ろしいほど整っており、飾り気のない構図で撮られているにも関わらず写真自体が一つの芸術作品に見えるような完成された美しさを放っていた。
 ただし髪がカラーひよこのような安っぽいピンク色で染まっており、その完成度を一割二割損ねている。
 続いて隣の写真は線の細い少年の物だった。
 顔は幼い頃の俺に負けず劣らずの美少年なのだが、表情はどうにも頼りない。
 捨てられた血統書付の子犬のような風情で、マニアックな人気は博しそうだった。
「なんと言うか、個性的な少年少女だな」
「感想は求めていません。受けていただけますか?」
 俺の評価を女は感情のない口調でそう切り捨て、写真を除けるとずいっとこちらに顔を近づけた。
「いや、受けるも何も……その、縁結びって何すればいいの?」
 近頃女性にそういう事をされた事がない俺は、思わず体を引いてしまう。
 女はそんな俺の様子に、初めて笑った。もちろん嘲るような冷笑ではあったが。
「基本方針はとてもおモテになる貴方にお任せします。最終的に双方合意の上での婚約届の掲出、もしくは交配行為を目的としますが、私が将来的にそれが確実となったと判断した時点で報酬はお支払いします」
「婚約か交配って……この子らいくつよ?」
「先に報酬を聞かないとはおかしな所で紳士ですね。お二人とも今年で十六ということになっています」
「ことになってるって何? ていうか十六じゃ交配行為しちゃマズいだろ」
「貴方はひょう学生でそういった行為を為さったと発言しませんでしたか?」
「ひょうだけどさ……」
 そう返されると言い返す言葉がない。先程から聞いているに明らかに怪しい仕事なのだが、
毒も食らわば皿まで。もしくは酔いの勢いで、俺は最後まで話を聞いてみる事した。
「で、報酬って?」
 けっしてこれに釣られたわけではない。
「日給一万。住み込みで光熱費はこちらが負担します。そして先の条件を満たした場合成功報酬として三百万円を支払いましょう」
「さ……あ、案外現実的な金額なんだな」
 咄嗟に酔いが醒め、その報酬の使い道を頭が勝手に計算してしまった。
 ここで一億だのと言われたら悪戯だと決めてかかる事が出来たのだが、三百万……。
 もちろん高額だが、例えば医大に入るためには安くて二千万ほどの金がかかると聞いた事がある。
 仮定の話だが、先程の写真のどちらかの両親が大金持ちで、娘か息子の将来の為に優秀な相手と結婚させたいと思ったのなら、三百万プラスαぐらいの金は平気で出すのではなかろうか。
 無くは、無いだろう。
「足りませんか?」
「あー、いや」
 ……でも、その為に俺?
 先程告白した過去に一切の偽りはないが、十年以上経った今の俺はどう見ても冴えないサラリーマンだ。実際には既にサラリーマンではないことは置いておくとして。
 いかん、飲み過ぎだ。頭がクラクラしてきた。
 それはともかく、うん、やっぱり怪しいから断ろう。
「やっぱりその話……」
「やはり妄想童貞野郎では荷が重いですか」
 断ろうとした俺の言葉に被せるように、女がため息を吐いた。
「だから彼女は妄想じゃねぇって!」
 それはあからさまな挑発だったが、俺はつい大声でそれを否定してしまう。
 再び周囲から視線を感じ、客たちの顔を見回す。
 彼らはニヤニヤと、あるいは憐みの目で俺を見ている。
 こいつらはいつもそうだ。人の話をちゃんと聞かず、自分達の尺度でしか相手やその関係を測れない。俺と彼女の別れも、そうした了見の狭い大人の都合で引き起こされたのだ。
 頭がぐつぐつと沸騰してくる。
 これはそう、彼女と引き離されたあの日以来の怒りだった。
「上等だ! 受けてやるよその仕事!」
 気付けば俺は女に指を突きつけ、そう啖呵を切っていた。
 自分が酔っていた。酔っ払いがそう自覚するのは、大抵翌朝の事である。

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