「先生、早く早く!」
柔らかな闇の中。
月が、スポットライトのように僕達を照らす。
彼女はその中を蝶のように飛び回り、ヒラヒラと舞い踊る。
そしてやがて彼女は、庭園の池の前で立ち止まった。
そこには、月がそのまま浮かんでいる。
「…わぁ、綺麗だね、先生」
彼女は追いかけていた虚空の月から目を離し、水に映るそれを凝視する。
まるで本当に月を捕まえてしまったかのような彼女の幸せそうな顔に、僕も思わず微笑む。
「ふふっ、そうだね」
「あ、何で笑うの?」
そんな僕の反応に不満を覚えた彼女が、眉根を寄せて僕を見る。
その仕草もまた、幼い子供のようだ。
僕は再度笑う。
今度は彼女の反応を楽しむように、少し大げさに。
「あ、また!」
案の定彼女は、さらに不機嫌な顔になった。
少々からかい過ぎただろうか。
「君が可愛いからだよ」
そんな訳で、彼女の質問に答えてやる。
すると彼女は、月の下でも分かるぐらいに顔を赤くしたあと、慌てて水面の月に視線を戻す。
「もう、なんでそんなくさいこと、平気で言えるの?」
「本気だからだよ」
笑顔では説得力が無いだろうか。
そんなことを考えながら、僕は彼女に言う。
でもこれは、本当に事実だ。
そして僕は、彼女が愛しい。
生徒としてではなく、一人の女性として。
僕は彼女を愛している。
だからこそ、しなければならないことがある。
呼吸を整える。
スゥ、ハァ、スゥ、ハァ、スゥ、ハァ、スゥ、ハァ…。
僕は彼女の後ろに立って、ポケットに入れたナイフを取り出す。
気付かれないようにその手を振り上げる。
トスッ。
彼女が僕の行為に気付く前に、その背中にナイフを突き入れる。
それだけだ…。
そして、それだけのことを、僕は彼女にしなければならない。
僕にはまだ、それを行えるだけの勇気はある。
そして僕は、彼女とこの場所に来るたびに、この行為をシュミレーションする。
そう…。
愛しい彼女の後ろ姿に思う。
良かった、まだ殺せる。
My darling
poison
僕が彼女に出会ったのは、2年と8ヶ月前。
彼女が13歳2ヶ月の時だった。
彼女は名家のお嬢様として、僕はその家庭教師として。
その間柄は、今でも続いているのだが。
二人の時間を重ねるうちに、彼女はいつの間にか僕を好いてくれ、僕もいつの間にか、彼女に惹かれていた。
やがて僕達は人目を忍んで付き合うようになり、その関係が半年ほど続いた。
そんな時だ。
彼女の祖父が、僕を呼び出したのは。
彼は病を患っており、僕を呼び出した時も寝床に臥せっていたが、その眼光は鋭かった。
僕達の関係がばれたのだと思った僕は、最初に彼に必死で謝罪し、彼女との関係を認めてくれるよう頼み込んだ。
だが、彼はそれを黙って聞いた後、そんなことは前から知っていたと語った。
そして今の僕の言葉で彼女への思いが真剣だということが分かったとも。
彼は長く息を吐くと、「これを聞いた君は苦しむと思うが、それでも聞いて欲しい」と前置きして、彼女の出生について語った。
それは実に突飛で、まったくもって信じがたい内容だった。
彼女の父は、科学者であったという。
天才的な頭脳を持っていたが、育った環境のためにひどく歪んだ思想を持っていたという。
その中でも一番問題があったのが、終末思想である。
こんな世界など滅んでしまえば良い。
彼はいつもそう呟いていたそうだ。
そして彼は、ある日独学で、とてつもなく強力な毒ガスの製造方法を開発する。
極少量で世界中に広がり、地球上の生物を抹殺できるという凶悪な毒ガスの製造方法を。
ただし、これにはひとつ問題があった。
熟成に、ピッタリ10年と3ヶ月かかるのだ。
そこで彼は、悪魔の計画を思いついた。
当時5歳9ヶ月だったわが子の体内に、ちょうど誕生日の三ヶ月前、その毒薬を注入してしまったのだ。
そして、その毒薬を体内にいれられてしまったのが彼女。
完全に熟成されるまで、その物質に害は無い。
しかし、彼女が16歳の誕生日を迎えると同時に毒は撒き散らされ、世界を滅ぼしてしまうのだという。
そんなに危険なものならば、彼女の体の中から取り出してしまえば良いではないか。
僕はそう訴えた。
しかし、彼は首を横に振った。
その毒は、無害ながら恐るべき特性を持っていたからだ。
その特性とは、特定の薬品と混ぜて使うと、その人間の細胞に、完全に同化してしまうことだ。
そして、既に彼女の体の中では侵食が進み、彼女の細胞のほとんどに、将来毒ガスとなる要素が潜んでしまっている。
つまり、既に彼女自身が世界を滅ぼす毒とかしてしまっているのだ。
ちなみに毒はその熟成が終わるまでは、空気は勿論血液でも性分泌液でも感染しないので安心したまえと、老人は笑って言った。
そして彼女自身が毒と化してしまっているからこそ、解決方法もあると彼は言う。
それは、彼女の全細胞の活動を止めてしまうこと。
つまりは彼女を殺すことである。
しかし彼には、それが出来なかった。
せめて、彼女が毒と化す16歳までは生きながらえさせようと考えたのだ。
そして彼女に自身の体のことを隠しつつ、彼女を見守ってきたのだ。
彼が、なぜ僕にそんなことを話すのかといえば、自分の命がもう永くないからだと、彼は言った。
つまり彼は僕に頼んだのだ。
愛する彼女を、殺せと。
それから三ヶ月ほどして、老人は死んだ。
彼女は自分を殺そうとしていた人間の死を大粒の涙で悲しみ、自分を殺すであろう男の胸の中で、肩を震わせた。
そして僕は、今までと変わらない生活を続けつつ、頭の中で彼女を殺す方法を考えるようになった。
「何時までも、こんな日が続くと良いね」
ある日、彼女は言った。
陳腐なセリフだった。
それでも彼女が言うと、重みがまったく違う。
そして僕は思ってしまった。
もしかしたら彼女は、自分の中に潜む毒について、知ってしまっているのではないだろうか。
だが、それがなんだというのだろう。
たとえ彼女にバレてしまっているとしても、僕のすることに変わりはないのだ。
毒が散布されれば、同時に彼女は息絶える。
ならば、せめて彼女を愛する僕が彼女を殺してやるのが、せめてもの救いだろう。
いや、そこに救いなど無い。
彼女を殺して僕が後を追ったとしても、この物語は悲劇にしかなりえない。
彼女の分まで生き永らえたとしても、それが臆病者の逃げ道ではないと誰が言える?
そもそも彼女がいない世界が存在するぐらいなら、毒と共に滅びてしまったほうが良いのではないのか?
「先生、好きだよ」
睦言の途中、彼女が消え入りそうな声でそういった。
僕も彼女に愛していると言って抱きしめた。
あぁ、不義理な僕を許してくれ。
臆病者の僕を、愛に狂いそうな僕を。
愛に死ねない僕を、君が刺し殺してくれ。
君を貪ることは、なぜこんなにも僕を安堵させる?
君を殺してしまうということは、君の全てを奪ってしまう事だというのに。
君を殺せば、僕は安らかに眠れるだろうか…。
そんなことを考えているうちに、僕はまた、君が愛しくなってしまっているのに。
そしてまた違う夜。
僕は愛しい彼女の背中に思う。
良かった、まだ殺せる。
スゥ、ハァ、スゥ、ハァ、スゥ、ハァ、スゥ、ハァ…。
スゥ、ハァ、スゥ…。
良かった、まだ、まだ殺せる…。