魔王の家の村娘A

VS穴


 それはクマル暦六百九十三年、八番目の月の事であった。
 世界の端で第二十九番目の魔王が世界征服を開始し、人類と魔物の戦いが始まろうとしているそんな情勢の中。
 その反対側の小さな村、アテューンのはずれの森。
 アン=ノンマルトンは月明かりの下、頭を垂れトボトボと歩いていた。
 彼女がそうして歩くたび、稲穂のようなお下げもゆらゆらと揺れる。
 それに合わせ、蛍のような緑色の燐光が大気の中をふわふわと踊った。
 魔力の粒、ラーナの光だ。見たくなくとも入ってくるその光を、未だに涙溢れる瞳に映したアンの心もまた、ふわふわゆらゆらと定まらずに揺れていた。
 同じ思考をぐるぐると繰り返す頭の重さに引かれるように、足が前に進む。
 彼女が、彼女の足が向かっているのは、アンが住んでいる村の麓にある小さな湖だった。
 ラーナの混成率が高い、その清らかな水に足を浸すと、自らの悩みや悲しみがスゥっと引くような気がしてくるのだ。
「ぐず……」
 鼻をすすり、瞳に溜まった涙を服の袖に押し付けると、アンは再び前を向いた。
 そして、そこで彼女は前方に黒い塊が落ちている事に気づいた。
 ラーナの光で輪郭がぼんやりと映し出されているが、彼女の膝下ほどまでの大きさの、ハリネズミのようにツンツンと逆立ったシルエットを持つそれが何なのか、アンには察しがつかない。
 鈍った頭で、彼女は一歩、二歩とそれに近づいた。
 すると、突如それがギョロリと目を開けた。
 そう、それは生き物だったのだ。
 それがトカゲか口ばしの無い鳥のような口と、皮膜の張った翼を広げた所で、彼女はその正体にようやく気づいた。
 ドラゴン……存在を確認されている魔物の中でも最強と名高い存在だ。
 これは子竜のようだが、それでも熟練の騎士数十人を屠る力があると、アンは聞いた事がある。
 その証拠とでも言うように、こんなに小さな体なのに、その金色の瞳に映されただけで体が竦む。
「ヒッ」
 彼女が短い悲鳴を上げ一歩下がると、竜はそれを合図にアンへと飛び掛ってきた。
 嫌だ、何故自分がこんな目に。理不尽だ。生まれた時からずっと。自分の人生は理不尽な事ばかりだ。誰か、誰か助けて。
 アンは呪い、恨んだ。そして願った。
 その瞬間、彼女の足元から、漂うラーナとは別の、強いオレンジの光が発せられる。
 足元の感覚が消えうせ、彼女は引かれるまま地面に開いた穴へ、落ちた。

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